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夏目房之介の「で?」

『シャブ浜』その後

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この噺、コメント欄以外でも落語好きを中心に反響が大きい。今日もエッグでカキフライ目当てにきてタッチの差でハズしたタッキーが「凄い」と感動していた。中世史の新進研究者「若旦那」清水克之君もメールをくれた。そのたびに対話するわけだが、そのたび中野翠さんの『今夜も落語で眠りたい』(文春新書)の一節を思い出す。

〈確かに落語には人間の「業」だの「心の闇」だの「精神のダークサイド」を描いているところもある。[略・それらを]突き詰めて考えないからこそ落語なのだと思う。
突き詰めて考えるーーなあんていう野暮なことは文学や精神分析(この二つは近頃はほとんど同じものになっている)や哲学にまかせておけばいいのだ。人間には「心の闇」がある。当たり前のことじゃあないか。何だかわからないけど面白いもんだね・・・・。落語はただそれだけでいいのだ。「心の闇」だの何だのを突き詰めて考えるのではなく、味わう。みつめるのではなく眺める。いいかげんと言えばいいかげんだけれど、それが落語の「大きさ」というものだと思う。「心の闇」だの何だのまで、そっくりそのままフワーッと受け入れ、包み込んでしまう落語に、私は救われている。〉(同書 93~94p)

この本はいい本で、おすすめなのだが、僕など〈人間には「心の闇」がある。当たり前のことじゃあないか〉なんてあたり「そうそう!」とヒザを打ってしまう。『シャブ浜』は、見ようによっては「野暮」のようだが、業をまるごと受け入れる「凄さ」は、そんな言葉を吹き飛ばす力がある。ま「粋」かといえば、そうもいえないけど「野暮」でもないよね。そしてこれもまた「救い」になりうる。

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