15日、9月の書の会
テーマは草書。テキストは王鐸(よく草書のお手本になる人だそうだ)。なかなか難物だが、面白かった。それにしても、草書なんて読めないし、全然興味なかったのに、自分に必要が出てくると見ても「う~ん、いいなぁ」とか感じるようになるんだなぁ。不思議なもんだ。
僕としては、字を一個ずつの積み木のように重ねた構成しかできないので、何とか連綿する流れを構成に作りたい。それで、やがてかな混じりの文章を自分なりに書ければ、と思っている。今日の練習で、何となく字と字が繋がってゆく感じと、余白をそれによって構成する感じが、少しとれてきた気がする。
下のお尻は大作制作中の小川さん。
頭上部のみ(笑
後ろは、モデル立ち風後ろ姿が頼子先生。
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各自条幅に作品化。
頼子先生よりご講評をたまわる。
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生徒たち。
左より、野村、横打、岩田、小川、英子。
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左より、キミ、野村(「風信帖」より)、僕、鵜野(平常心是道)、英子。
作品は王鐸より、僕は「誰任意遊」をとった。
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左より、鵜野、英子、まちこ、横打、小川。
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左より、キミ、野村、鵜野(前回の「色即是空」)、鵜野今回分、頼子先生の「平常心是道」(鵜野用お手本)。
ウーノの進歩ぶりには目を見張るものが・・・・。やはり、カラオケだけではないのだな。
それと、まちこちゃんの最後の字「遊」は、のびのびしててなかなかいい。
頼子先生の話で「臨書には二つの方法があります。一つは、運筆を真似るもの。もうひとつは形をとるもの」というのは、なるほど、八卦掌でもそうだな、とか思ったり。ま、何でも習い事には共通する要素かも。
ちなみに僕は、この作品の前にかなりちゃんとした臨書を書いたが、そうすると条幅が凄く余っちゃうし、自分で納得いかんので、自分なりに崩して条幅に合わせて作品化した。
運筆というのは、一見「そこに書かれている字の跡を視覚的に正確に手でマネすること」みたいだが、じっさいにそれをやるためには、細かい字の痩肥や筆の払い方や止め方などを実現するために、書く自分の体の力の加減と動き、筆の上下、速度、ねじりなど、ほとんど内的感覚の「写し」だったりする(多分)。これは、絵画でいうところのデッサンみたいなものだろうか。
一方の「形」だが、これは頼子先生のいわんとするところが正確にとれてないかもしれないので、勝手な理解だけど、多分クロッキー。全体の流れ、強弱、リズムの全体性を写す。楷書ならともかく、偶然性の強い草書では、運筆をそのまま写す行為と、全体の形を写す行為では、かなり違う結果になる。細かい部分の角度やバランス、カスレや痩肥具合などは、草書の偶然性を全体としてマネするのであれば、犠牲にせざるをえない。
じっさい、今日練習してみて、自然にその二つのやり方で臨書していた。一つは、できるだけ正確に見本そのままを写すように。次に、全体の感じ、印象、たとえば「遊」の形を全体としてつかんで、それを再現しおゆとしてみる。すると両者は、かなり違う結果をもたらす。が、両方とも臨書として必要なのである。
たとえば、八卦掌や太極拳でいえば、トウロという型を正確にマネして憶えることと、その力の動きを質的に「写す」ことは別物で、後者はまずそういうカラダを鍛錬で作らないといけない。書の場合、武術じゃないので、形と運筆の両方をやっていくと、カラダの動きを次第に鍛錬できるようになってゆくんだろうと思う。
追記
ちなみに昨夜も、寝付けなかった。書をやるとどこかが「起きて」しまうんだろうか?
追記2
読み返してみたら、運筆と形の解釈・分析、ちょっとズレてる気がする。あとで、再考。