「インドの話す樹」
少し前の日経に杉浦康平さんのコラム「世界の生命樹十選」5(7月23日付)の記事があった。小さな絵の写真で、しかも新聞なのでよくわからないが、うねうねと蛇のまといつく樹からたくさんの人がぶらさがって見える。
〈樹上には子供が遊び、色とりどりの花があちこちに咲く・・・・と見える。
だが眼をこらしてみると、花と見えたものは動物の首。鳥や狐、馬、牛、羊、駱駝・・・・たち。子供と思われたものは裸形の男・女で、すべてが枝先に生えでたものであることが理解される。〉
17世紀、ムガール朝の作者不詳の細密画でベルリン国立美術館蔵とある。
〈裸形の男・女は、精霊神・ヤクシャ(夜叉)たち。山野や森の奥深くに潜み、大自然の豊穣力を活気づけて、地中からは数知れぬ宝物を湧きださせる。[略]精霊神は快活で善良な性格をもち、人前に現れるときには豊満な女性に変身する。〉
じつは、このイメージにとても近い幻想を経験したことがある。
はじめてバリ島にいった30代のとき、コテージで一休みしようとベッドに横になっていたら、つぶったまぶたの裏に、真っ暗闇の夜の中にものすごくきれいな白い樹が浮かぶように見えたのだ。その樹には優しい白い木蓮のような花がひらひらと風に吹かれていて・・・・と思ったら、その美しく揺れる花の一つ一つが優雅に舞う白い民族衣装の美しい少女たちだった。その光景の美しさといったらなかった。
この最初のバリ旅行は、僕の人生の分岐点になるほどの経験だったのだけど、この幻視はその経験の一部だった。
のち、非常に似た幻視を見たという人の話を、やはりバリで聞いた。その男性は、クルマで何人かで移動中道に迷い、いくら地図の通りに行こうとしても目的の村に着かず、それどころかあるはずの明かりも見えない真っ暗な道をえんえんと走った。と、前方に真っ白く輝く樹が見え、そこを目指すうちに目的の村に着けた、という話だった。
こういう話は、日本の都市でしているかぎり、らちもない入眠幻覚にすぎない。が、バリでは現地の人々がマジにこれらの世界を信じており、僕らもその共同幻想に即座に共感する。それらの幻視は、ある種強いリアリティをもって「信じ」られる。何しろ、自分の記憶にはないはずのイメージに強くとらえられるのだから。
それまで神秘体験などに一切縁のなかった僕にとって、バリでの体験はこうした境界的な意味合いをもって始まり、そのことを心のどこかで受け入れ消化しつつ、こちら側に戻ってくることで成り立っている。「信」はいつも僕の「外側」のことだったが、いわゆる信仰とは違う姿で、自分の経験になったところがあった。少なくとも自分の死生観を深いところで変え、とらえ返すものにはなった。
もっとも、こうした経験で重要なのは「帰ってくる」ことである。行ったきりの人は、正直あまりこの世界の役には立たない。尺が合わないのだ。
あの白い樹の美しい幻視は、案外いって帰るための道標だったのかもしれない。
ちなみに、バリの最初の旅行から帰った僕に「何か、陽気な踊る女神を連れてきてる」といって、彼女の名前(ラドゥーラ・ヒッカラ? ピッカラ?)を語る声まで聴いたのは、元の奥さんであった。
僕には全然知覚できなかったけどね。