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夏目房之介の「で?」

26日、昼間は森下文化センターで

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少女マンガの作家と編集者の対談シリーズ「時代を変えた少女マンガ」をやっていて、第三回で竹宮恵子さんと元「マンガ少年」の松岡さん(現「コミックフラッパー」編集長)、元「JUNE」の佐川さん司会の回を見に行く。ただ、『地球へ』展をやってたこともあってか、竹宮ファン、『地球へ』ファンの集いっぽくなっており、編集者の話はあまりなかった。僕的には残念。でも有名作家だとこうなるのはしかたないか。
じつは「マン少」で僕も末期に連載してたこともあり、そういえば「マン少」とか「コミックトム」系の流れで、作家にお任せスタイルで新人をのばしたり、ユニークな才能を発掘した編集制度も大きな役割を果たしたんだよな、とか思ったのであった。日本のマンガ編集制度を考える場合、まだ全然研究対象になってないし、どうしてもメジャーのやり方を中心に考えるけど、それ以外の編集部でどうなってるかとか、誰かきちんとフィールドワークしてくれないだろうか。俺、面白い研究の鉱脈を掘り当てるのは好きだけど、緻密で地道な発掘整理作業とか苦手だしね。

松岡さんは、僕の大学時代の史学科いっこ上の友人が朝日ソノラマに入ったときの同期で、僕が週刊朝日とかのマンガ・イラストなどで生活を確保しつつ、さらにマンガ家としてステップ・アップしようと持ち込みしてたときに、「マン少」の編集者だった。僕は描きためた『スペース・ドリフターズ』の元の原稿数本を、大手にも持ち込んでた。某K談社には「ネームでもってきて」とかにべもなくいわれたのに、「マン少」では一発でOKで、しかも直しはページ数だけ、みたいな感じだった。
その後、漫画天国とか、コミックトムとか、結局僕は何もいわれないとこで仕事を続けたわけで、まあ、いわゆるマンガ編集とはケンカしちゃうタイプだったかもしれないな。松岡さんは、そんなわけで僕にマンガの連載をくれた、数少ない編集者の一人であったのだ。
しかも、その『スペース・ドリフターズ』という、宇宙をイカダで漂流する凸凹コンビの話を面白がって取材にきてくれたのが、何を隠そう佐川さん(藤田尚)だった。「スターログ」だったと思うが、SFマンガとして取り上げてくれて、けっこう長い記事だった。もちろん、それが初対面。これって、ひょっとしたら漱石関連じゃない、マンガ家としての初のインタビューだったんじゃないかな。
今調べたら、『スペースドリフターズ』連載は81年のことだ。週刊朝日「デキゴトロジー・イラストレイテッド」はすでに79年から週刊連載始めており、収入的には問題なかったけど、やっぱりストーリー・マンガやりたかったんだね。ちなみに2ページに拡大した「ナンデモロジー學問」連載は82年からだった。「マン少」は、僕のせいではなく、その少し後にお亡くなりになった。
僕が30代になったばかりの頃の話だね。
う~ん、よく考えると、感慨深いものがあるなぁ。

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