【書評】『ぼくらはそれでも肉を食う』:動物と倫理
/ 単行本 / 366ページ / 2011-06
日本ではあまり話題にのぼることがないが、アメリカではイルカセラピーという療法が広まり、ずいぶんと論争を呼んできた。イルカとの交流により、人間の苦痛を軽減することができるというもので、ダウン症、エイズ、自閉症、小児麻痺などが緩和され、腫瘍が小さくなると謳うものまであるそうだ。
論争の争点となってきたのは、実際に症状に改善が見られたかということだけではなく、その倫理問題にもある。複雑な社会生活を営み、洗練されたコミュニケーションシステムと持つ知的な動物を、人間の事情だけで捕まえてきて良いのかと主張する研究者が現れたことに、端発した。
このような例は枚挙にいとまがない。はたして、動物の権利というものを考える時に、「捕獲」「処分」「管理計画」と「殺戮」「大量虐殺」「残虐行為」の線引きは、いったいどこにあるのだろうか。本書は、そんな人間と動物の関係にまつわる道徳的問題を考察する「人類動物学」をテーマにした一冊である。
◆本書の目次
はじめに なぜ動物についてまともに考えるのはむずかしいんだろう?
第一章 人間と動物の相互関係をめぐる新しい科学
第二章 かわいいのが大事 - 人間のように考えてくれない動物についての、人間の考え
第三章 なぜ人間は(なぜ人間だけが)?人とイヌのいろんな関係
第四章 友だち、敵、ファッションアイテム?人とイヌのいろんな関係
第五章 「高校一の美女、初のシカを仕留める!」動物との関係と性差
第六章 見る人しだい - 闘鶏とマクドナルドのセットメニューはどっちが残酷?
第七章 美味しい、危険、グロい、死んでる - 人間と肉の関係
第八章 ネズミの道徳的地位 - 動物事件の現場から
第九章 ソファにはネコ、皿には牛 - 人はみんな偽善者
最も多く議論されてきた問題は、食用犬を巡る論争であるだろう。イヌを食べることに対するタブーはふたつの正反対の感情から生じている。アメリカ人やヨーロッパ人は、イヌを家族の一員と扱っているがゆえにイヌ肉を食べない。一方、インドや中東の大半ではイヌは卑しい動物とみなされ、その不浄さゆえに食べられることはない。そして、今でもイヌ肉が人気なのは、韓国や中国である。ここでも中国では冬の食べ物、韓国では夏の食べ物とされているなどの違いがみられる。そして、韓国において食用犬として人気があるヌロン犬は、ペットにはならないなど、社会的に線引きするような仕組みもあるという。そのあり方に賛否はあれど、考古学的な証拠によって、人間は何千年もイヌを食べ続けてきたことがわかっている。
また、マイケル・サンデルの『ハーバード白熱教室』でおなじみの「トロッコ問題」に派生した思考実験の話も興味深い。
◆トロッコ問題
暴走したトロッコが五人のほうに向かっている。あなたは軌道にかけられた橋の上にいる。となりにはまるまる太った男がひとり。この男を橋から突き落としてトロッコの軌道に放り込んでやれば、五人を救える。さて、これは道徳的に許されるだろうか?
通常のトロッコ問題では、一人の人間と五人の人間を天秤にかけている。これを、男性と五頭のゴリラ、見知らぬ男性とあなたの飼いイヌなどの問題にを置き換えると、回答がどのように変わるのかという考察である。この場合、人間同士を問題にした場合とは異なる結果が導かれるケースが多く、ほとんどすべての被験者が、人間を優先的に選択したという話が紹介されている。人間は自分達の利害をほかの生物種より上に置こうとする道徳的文法を生まれつき持っているということなのだ。
このように動物をめぐるさまざまなジレンマを考察するということは、人間自身をより深く知るということにつながる。そして、そこで明らかにされるのは、人間という存在そのものが矛盾をはらむものであり、動物をめぐる道徳心にも、一貫性を見出すことはできないということである。
人間だけが絶対的な高みに立って、動物たちを線引きをすることなど到底できっこないのである。人間もまた動物界における相対的な存在として、混沌を受け入れていかなければならない。動物を巡る価値観の違いだけで、誰かを非難する資格など、誰もが持ちえないということなのである。
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