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あれから25年。そして15年 ... 私にとっての天安門事件

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今から25年前の1989年。日本がバブル景気に沸いていた頃。

当時27歳だった私は日本IBMで、製品企画担当者として、アジア各国の製品企画責任者と仕事をしていました。

当時のIBMでは、日本IBMの一部門だったAPTO (Asia Pacific Technical Operations)がアジア太平洋地区の製品責任を持っていました。そこで私は毎年2回、中国・台湾・韓国・タイの製品企画責任者を日本に招き、APTOの製品マネージャーからIBMの製品計画を紹介してもらった上で、どのように各国語対応するかを皆で検討していました。

4月に2日間のワークショップを行い、各国責任者は自国へ帰っていきました。

その年の5月。中国・北京にある天安門前に、学生たちが集会している様子が連日報道されていました。

今と違って当時の中国は、人口が多いものの経済規模は小さく発展途上国。共産党一党支配に対し、集まった若い学生たちは民主化を訴えていました。大きな熱量を感じました。

「中国は変わるのではないか?」と思っていたその矢先、1989年6月4日に「天安門事件」が発生。多くの学生たちが亡くなりました。

その数日後。中国の製品企画責任者から、東京のオフィスに電話がありました。彼は言葉を選びながら、

「こういう状況になった」
「マネジメントとして、現状ではこの地域に投資判断はできない」
「当初の要望は取り下げる」

数ヶ月後、彼はオーストラリアに移住しました。

 

それから10年後の1999年。今から15年前。

37歳になった私は、マーケティングマネージャーとして、香港で行われた展示会で、担当製品のデモと製品説明を行うために、中国に返還されてから2年後の香港にいました。

オフの日、香港IBMのセールス担当者が、香港の様々な場所を車で案内してくれました。

車の中で、それとなく天安門事件の話になりました。車の中で二人きりでしたが、彼は「天安門」という言葉でなく、「あの出来事」という代名詞を使って、言葉を選びながら話している様子が印象的でした。

翌日、街の書店を回ってみました。天安門事件を扱っているらしい写真集が店頭にあります。写真集は、学生の集会、争乱の様子が続きます。写真集の最後のページは、中国の政権責任者が登場して、民衆から歓迎を受けている様子で終わっていました。

中国における天安門事件の現実は、こういうことなのか、と感じました。

 

中国はその後、経済的に大きな躍進を遂げ、ついに日本のGDPを追い抜きました。

 

明日で、あれから25年が経とうとしているのですね。

 

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