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 セールスジャパンの経営を始め、様々な事業活動に携わるマイク丹治が、日々仕事を通じて感じていることをつづります。国際舞台での活動も多いので、日本の政治・社会・産業の課題などについて、グローバルな視点から、コメントしていきたいと考えています。

国際社会の中での不公平

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日本の「ヘイトスピーチ」が、国連で問題になっているようだ。これに対する日本政府の対応は、現実的な危険を伴わないスピーチについて規制をかけることに対する「表現の自由」からの制約を表に出したもののようだ。

この問題は、それこそ立憲主義や民主主義の根幹に関わるものであり、確かに簡単に規制などの結論が出せるものではない。ただ、一方で特定の人々を相手に、それこそその人々に責任のないことまで押し付けてその存在を否定するようなことが、社会的に容認されてよいわけでもないと思う。

私が問題にしたいのは、ヘイトスピーチに対する国際世論そのものよりも、もしこれが望ましくないのであれば、何故近隣国によるわが国に対する国家を挙げての中傷誹謗は認められるのかということだ。歴史認識などの事実の問題については、当然相互に認識の相違があるのは致し方ないとして、わが国国民や国家に対する必要以上の発言が近隣諸国の国家の中枢はもとより、国民一般においても頻繁に繰り返されているではないか?

そして、それは国民教育やマスコミなどを通じて、国家全体として実施されている大掛かりなものだ。このようなことが平気で容認され、わが国のヘイトスピーチと言われるものだけが俎上に上る、そこに国際社会に対するアピールの仕方などの巧拙もあるのかもしれないが、過去に縛られた不公平さを感じるのは私だけだろうか?

やはりいつまで経っても、わが国は戦敗国であり、戦勝国はいつでもそのことを持ちだして永久にわが国を糾弾できると思っているのか?繰り返し指摘していることだが、そろそろ過去に関する争論は棚上げにして、そこから学んだこれからの世界のあり方に国際社会は注力すべきではないか

ちょうど今朝の読売新聞に、現行憲法の制定の過程に関する記事が掲載されていた。もちろん何が事実か判別するのは難しいが、交戦権放棄・軍備放棄の文言が相当程度日本側の意思によるものであって、幣原が「100年後にわが国の予言が正しかったことが証明される」と発言したとの記載がある。

相変わらずいがみ合い、物理的衝突を繰り返す国際社会において、わが国が果たせる役割を改めて考え、それを国際社会に訴えることで、不毛な過去に縛られた議論や不公正な取り扱いを改めていく必要があると考える。

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