脳の視点から描く&鑑賞について~岩田誠著「見る能・描く脳」より
神経科学者である岩田誠氏の著書「見る能・描く脳~絵画のニューロサイエンス」(東京大学出版会)は、コミュニケーションアートのプログラムで起こっていることを、的確に解説してくれているところがあり、とても興味深い。
「視覚情報から始まる思考の過程、あるいは視覚情報を作り出す行動をを生み出す思考の過程は、視覚的思考と呼ぶことが出来る。・・・絵を見る、あるいは絵を描くといった絵画活動は、この視覚的思考の中でももっとも重要な部分である。一般的に思考とよばれる精神活動には、なにが問題なのかを見つけ出すタイプの問題発見型思考と、与えられた問題を解くタイプの問題解決型思考とがある。視覚的思考としての絵画活動にもこの両面があり、絵を見る場合にも絵を描く場合にも、この両者は同時に作動しうるものである。・・・」
鑑賞ワークショップは、彼の言葉を借りると、下記になる。
「描かれたものが与えてくれる視覚情報を懸命に分析し、自己の視覚体験で得られた視覚的記憶と対照するとい精神活動が営まれることになる。また絵を見る多くの人びとは、画家がなぜその絵を描いたのか知りたくなり、これについてあれこれと想像をめぐらせる。これもまた問題解決思考のひとつである。また、目の前に見るキャンパスのなかに、どれまでの自分の知識のなかにはなかった何ものかを発見すことも少なくない。・・・それは見る人びとの新しい視覚体験となり、その人の脳内に蓄えられている視覚世界を拡大していくことになる。これは問題発見型の思考である。」
まさにこれはコミュニケーションアートのワークショップの中で起こっていることだ。
アーティストの作品を鑑賞する場合は、そのアーティストの表現した世界が思考を広げるものであれば、より普遍的で広義な問題解決思考と問題発見思考が働く。今のところその観点からくにさんの作品を使用することにしている。また、自分の作品を鑑賞する場合は、自己に対しての問題解決思考と問題発見思考が働く。そして他者の作品鑑賞の場合は、社会において共に生きるヒトから刺激を受けた形での問題解決思考と問題発見思考が働く。
そして描くワークショップについては、彼の言葉を借りると下記になる。
「描く側の画家においても、なにを描こうかという問題発見型思考と同時に、それをどのように描くかという問題解決型思考が要求されることはいうまでもない。さらに、これらの二つのタイプの思考は、互いに独立したものではない。問題を発見すればそれに対する回答を探す必要が生じるが、問題解決の途中で新しい問題を発見することになるということも少なくない。また、発見した問題の解答を見出すことができた場合にも、そこから新たな問題発見への道が生まれる。このように二つの型の思考は、お互いに重なり合い、連環となって繰り返されていく。」
私たちのワークショップを体験した人の多くは、その一端を体験し、時に驚き、時に戸惑う。そして日常に埋没していた思考が開かれていくという体験をする。
ただ、単純に描き、鑑賞すれば、視覚的思考が活発に起こるとは限らない。
「この連環の過程が、絵画表現であるが、問題発見にしても、問題解決にしても、すでに自己の知識として蓄えられている問題を発見できるだけであったり、すでに自己の知識のなかにある解決方法によって問題を解くことしかできないのが普通である。そのため、多くの場合、この表現連環は自己の知識体系のなかから外に出ることができず、途中で行き詰ってしまう。そうすると、そこでこの表現連環が途切れてしまい。視覚的思考が止まってしまうのである。自分のすでにもっている視覚体験の中だけでしか絵を見ることができない人びとは、自己の知識の範囲内でそのキャンパス上になにかが描かれているかが理解できないと、新しい視覚体験を与えてくれる絵の前から立ち去ってしまう。すなわち、問題解決にも、問題発見にも至らずに、視覚的思考の連環が途切れてしまうのである。これは日常的に繰り返される現象であろう。それでも、われわれの日常生活において、自分の脳内にある視覚世界がうまく機能していると感じている限り、絵を見たときの視覚的思考の連環が途絶えたとしても、それほど大きな意味はない。」
まさにこれが、今まで私たちの日常の中で、絵画が本来持っている役割を、享受できない理由かもしれない。そして、絵画展では、解説を読んだり、聞きながら絵を見るという便利な習慣も、その視覚的思考を邪魔している可能性もある。
最後に、私たちのワークショップが機能している理由とそれが創造性に繋がることが下記に書かれている。
「しかし、絵を見るという、はじめに視覚対象が与えられる場合と異なり、なにもないところから出発しなくてはならない絵を描く場合には、視覚的思考のこの連環を閉じてしまっては、新しい視覚体験を生み出すことができなくなる。画家にとっての表現とは、なにを描くか、どのように描くのか、という問題に対する視覚的思考の連環であり、それが意識されねば、キャンパスの上には何も現れてこない。視覚的思考の連環を生み出し、これを保持していくことは、創造性とよばれる。」
今回は、コミュニケーションアートのワークショップに直接関係した部分を抜粋したが、まだまだヒトの脳と描く・見るの関係についてのネタは満載の書籍だ。
最後に、画家たちは神経科学者たちに先んじていたことを実感するという下りがある。
「デカルトにとって、見るということは、眼球通った光が松果体に達することであり、網膜の光感受特性に思いを馳せることは想像だにできなかった。これと同様に、十九世紀末から今世紀初頭にかけ、多くの独創的な画家たちが脳の絵画を形造っていたころ、脳における視覚情報処理過程がモジュール構造を有するということは、科学者たちには夢想だにできるものではなかった。まして、視覚的記憶の文脈構造や、視覚と体性感覚の結合などという問題に、神経科学の研究者たちが本格的に乗り出してきたのはたかだか、ここ10年ほどのことである。このような事実を目の前にすると、見ること、描くことというヒトのもっともヒトらしい特性を追い求めるにおいて、画家たちはつねに神経科学者たちに先んじていたことを実感する。いいかえるから、視覚的思考という精神活動において、画家たちは問題発見型の思考過程を中心とし、神経科学者たちは、問題解決型の思考を行ってきたといえよう。神経科学者たちは、つねに、独創的な画家たちの轍(わだち)を辿るという、後追いの立場に甘んじてざるを得なかったのである」
なにもないところから想いを描き、鑑賞することを、子どもからおとなまで、誰もが恒常的にできる場があったら、サイエンスの轍となり、ヒトの問題解決力と問題発見力が劇的に進化するかもしれない。