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「誰かが教えてくれることを信じるのではなく、自分で考えて行動する」ためには、矛盾だらけの「現実」をありのままに把握することから始めるリアリスト思考が欠かせません。「考える・書く力」の研修を手がける開米瑞浩が、現実の社会問題を相手にリアリスト思考を実践してゆくブログです。

原子力論考(85)開米が原子力論考を書こうと決意した理由

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 私がこの誠ブログで原子力論考を書き始めたのは2011年の6月6日。
 直接のきっかけは、誠ブログ管理人から「原発は必要? 不要?」という お題が出たことです。「お題」というのは、その時々の時節柄話題になるような1つのテーマを設定して、興味のある誠ブロガーがそれについて書く、というも ので、2年前の6月には原発に関するお題が設定されたわけです。

 そこで私は、「これはどうせ長くなるし、シリーズものとして書こう」と決めて原子力論考を書き始め、現在まで続いています。長くなることは予想していましたが、ここまで長くなるとは予想外でした。

 今ではそこそこ事情も違ってきていますが、2年前の6月の段階では、明確に「原子力は必要である」という主張を打ち出すのは少し勇気が要ることでした。
 なにしろ私は2011.6.6 の原子力論考(1)にて、本題の一番最初にこう書いているのですよ。

「結論を言うと向こう100年ぐらいは(原発は)必要だろう、と私は考えています。」

 というわけで私はずっと原子力推進派であり、それを表明してきています。
 べつにそう書いたからといって電力会社から仕事がもらえるわけでもなく、本が売れるわけでもないのに、なぜわざわざそんなことをしてきたのか、今回はその話を少し書いておこうと思います。

■開米が原子力論考を書くことを決めた理由

(1)友人達がおかしな方向に走ってしまうのを防ぎたかった

おかしな方向、というのは、まあ、いろいろありますが察してください。
1つ例を挙げると、2011年の3月か4月に私も関わっていたある研究会で、1冊の本が話題になったことがありました。要は小出裕章のトンデモ本だったのですが、困ったことにそれがトンデモであるということを誰も知らずに信じ込んでいるようでした。
となると、知らんふりもできません。放置すると、友人が放射能対策のために無駄な金を使ったり家庭崩壊を招いたり、果ては国家の政策を歪めてしまう一因になります。

そこで私はその本は間違いだらけだから信じるな、小出は政治活動家であって学者ではない、ということをその研究会の中で説明しました。

ただし、一応説明はしたものの、それが全員に通じているとは思えませんでした。もとより全員に通じることは期待しませんが、それにしてももっと丁寧に説明する必要があるな、ということは感じていました。

それに、その研究会はたまたま私も参加していたので様子を知ることができましたが、それ以外の場所でデマに騙されている友人達がいてもわかりません。

そこで、まとまった形で整理してネット上に誰でも読めるように置いておこう、と考えたわけです。そうすれば、今は放射能デマで落ち着きを失っている人でも、 いずれ少し冷静になったときには読んでくれるだろう、そのときに役に立てばそれでいい、ということです。幸いその狙いはある程度成功したようです。


(2)自分が出来ることで社会に貢献するのが社会的な義務だと考えた

理由の2番目は、それが自分にできる社会貢献だと思ったことです。
大手マスコミがデタラメな放射能危機を煽り、東電・原発叩きに狂奔する状況下では、それを放置するわけにはいかない、と思いました。自分が何も知らないので あれば話は別ですが、幸か不幸か反原子力運動が一部の政治勢力とマスコミに商売道具として利用されてきた経緯を私は30年も前から知っていました。
となると、放っておくわけにはいきません。

キリスト教には「作為の罪(sin of commission)」と「不作為の罪(sin of omission)」という概念があります。してはならないことをするのが「作為の罪」であるのに対して、できることをしないのが「不作為の罪」です。端 的な例を挙げると、教室で1人の子が集中的にいじめられているときに「いじめをする」のは作為の罪であり、「いじめを止めない」のは不作為の罪にあたりま す。私はキリスト教徒ではありませんがこの考え方には一理あると思っています。間違った行いがされていることを知っているのに、それを止める努力もせずに 見て見ぬふりをするべきではない、と考えたわけです。

と、以上2つの理由で原子力論考を書き始めたわけですが、書き始めてあらためて自覚したのは、これが意外にというか当然というか、ある意味適材適所だったということです。

どういう意味で適材適所だったのか、理由を全部挙げてみます。

(A)理系の話題をそれほど苦にしない
大学は中退してしまったとはいえ、もともと数学と物理を得意にしていた理系の人間なので、ベクレルやグレイやシーベルトという用語にも別に抵抗感はありませんでした。

(B)電気の知識が多少あった
もともと理系なので電磁気学の初歩ぐらいのことは知ってましたし、アマチュア電子工作レベルの話とはいえ、電流を安定させることがいかに難しいかも自分で悩 んだ経験がありました。強電系の経験はありませんが、「電力は足りてる」とか「自然エネルギーで脱原発」論のデタラメさがわかるのはそのおかげです。

(C) 核技術に関する知識が多少あった
一般向けの科学読み物や入門書レベルの話ではありますが、ウランの濃縮が必要な理由や原爆と原子炉の違いなどある程度知っていました

(D)軍事・安全保障に関する知識が多少あった
「素人としては詳しい」というレベルのことですが、この領域のことも多少知っていました。

(E)メンタルヘルスに関する知識が多少あった
前回、オオカミ少年の話題で書いたように、共依存的に反原発運動にのめり込む人が出てくることは当初から予想がついていました。それも、もともとこの種の領域のことを、ほんとに多少、だけなんですが知っていたからです。

(F)政治運動に関する知識があった
日本の戦後左翼運動がらみの政治史を多少知っていました。

(G)会計学に関する知識が多少あった
本当に多少、ですが、財務書評の数字が何を意味するかぐらいはわかります。


(H)文章を書くことを苦にしない
文章を書くのは苦にしませんし、ブログの読み物としてならば成り立つレベルのものを自力で書ける力は持っています。(商業メディアに載せるレベル、となるとまた話は別で、要求水準が上がるのでそういう場合は編集者が必要になりますが)

(I)専門知識を素人にわかりやすいように構造化することができる
ここは本業ですから「素人にしては多少できる」レベルではなく、それでメシを食っている得意分野です。

(J)電力関係の仕事をしていない
御用ライターとか工作員とか呼ばれる恐れがありません。まあ、それでも工作員呼ばわりする人物は出てきますが(笑)

(K)調べ物をする時間が取れる
A~G の領域を「多少」知っているとは言っても、あくまでも素人ですから、わからないことがどうしても多いので、本格的に書こうとすると調べる必要があります。 たとえば電力系統のことを書こうとしても強電系の技術のことはほとんど知らないので1から調べる必要がありました。幸い、そのための時間を取れる状況でし た。

(L)書いても本業に悪影響はない
いや、影響したのかもしれませんが、とりあえず私が気がつくレベルでは影響はありませんでしたし、ないであろう、ということは予想がつきました。


と、ざっとこんな感じです。
A~G の話は「多少知っている」だけなので普通だったら本来は何の役にも立ちません。たとえば軍事・安全保障について、おそらく一般の社会人を100人集めたら その中で一番ぐらいには知っていると思いますが、そんなものではお金は稼げないわけです。プロを100人集めた中の1番なら意味がありますが、素人100 人のうちの1人なんてのは普通は無意味です。

ただし、こと「原子力論考を書く」という点においてはそれが役に立ちました。AからGまで少 しずつ知っているために、原子力問題に関してそれらの側面を考える必要がある、ということは最初から分かっていました。そして、プロに比べると全然知らな いけれど、素人に比べるとよく知っている、という、両者の中間の立場も「専門的な知見を素人にわかるように説明する方法を考える」ためには一番都合がいい ものでした。

これだけ条件がそろってしまったら、やらないわけにはいかないでしょう。
そんなわけで、原子力論考を書き続けて現在に至っています。

まあそれでも前回の「オオカミ少年は悲劇を望むようになる」の話のように、最初からわかっていたけれど表だって書くのは2年待ったような話もあります。知っていることをすべて書いているわけではなく、いつ何を書くかは一応社会的な状況を見てタイミングを計っています。

まだ大飯の2機以外は再稼働できていませんし、当分まだまだ書き続ける必要はありそうですね。

■開米の原子力論考一覧ページを用意しました。
→原子力論考 一覧ページ
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