榎本憲男「エアー3.0」読書感想文
人は良いコンセプトを知って生きる(死ぬ)ことができる。
それが幸せのカタチなのだろう。
榎本憲男さんの最新作「エアー3.0」には、主人公である中谷祐貴の言葉として「やさしさ」というセリフが六十回出てくる。
たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていたとしても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい(新約聖書)
人工知能「エアー3.0」を開発した杉原知聡から時折届く預言。
主人公は「天」の声を読み、次々と予期せぬ行動を起こす。
・得かどうかというクライテリア
・徳かどうかというクライテリア
ねじれの位置にあるようなこれら二つの軸を統合的(comprehensive)に捉えることができないので、誰も中谷の言動の意味がわからない。
読み始めて気づくのは、本書がいかに広範な分野を網羅しているかということ。しかし主眼は、そこに置かれるべきではない。重要なのは、私たちの目を新たな地平へと向かわせることなのだ。「エアー3.0」は(著者にはこう書くことをお許し願いたいのだが)この国において久しく書かれていなかった倫理の書である。この本にはゲームや罠の要素が散りばめられている。しかしここに見られるのは、よくある類のレトリックの罠ではない。「エアー3.0」の罠はエンターテイメントの罠である。
この本には、読み手を外へと誘い、テキストから離れ、ドアをバタンと閉じさせるような仕掛けが無数に用意されている。すべてがお遊びであると読者が信じこむような内容が随所に盛り込まれているのだが、しかし実は極めて深刻かつ重大な問題が投げかけられているのであって、私たちを支配し抑圧する強大な帝国主義から、私たちの日常生活に潜み強迫的不安をもたらす卑近な帝国主義にいたるまで、あらゆる形態の帝国主義を「やさしい」帝国に、すなわち「まほろば」に変容させることが急務なのである。
ミシェル・フーコー:たとい闘う相手が忌まわしいものであっても、闘争的であろうとして悲壮感を漂わせる必要などない。能動的であるために必要なのは、定住ではなく遊動性である。ポジティブかつ重層的なものを、同調ではなく差異を、同質ではなく流れを、システムではなく遊動的な仕掛けを模索すべし。
参考
ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著
「アンチ・オイディプス:資本主義と分裂症」
英語版の序文 by ミシェル・フーコー
抄訳:
アンチ・オイディプスを読み始めて気づくのは、本書がいかに広範な分野を網羅しているかということであろう。しかし主眼は、そこに置かれるべきではない。重要なのは、私たちの目を新たな地平へと向かわせることなのだ。アンチ・オイディプスは(著者にはこう書くことをお許し願いたいのだが)倫理学の書であり、フランスで久しく書かれていなかった倫理の書である。アンチ・オイディプス的であることは、ひとつのライフスタイルであり、考え方、生き方なのである。
もしこの大著を日常生活のマニュアルあるいはガイドブックとするならば、それらは以下のように要約されるであろう。
・ポジティブかつ重層的なものを、同調ではなく差異を、同質ではなく流れを、システムではなく遊動的な仕掛けを模索すべし。
・能動的であるために必要なのは、定住ではなく遊動性である。
・たとい闘う相手が忌まわしいものであっても、闘争的であろうとして悲壮感を漂わせる必要などない。ドゥルーズとガタリは権力(power)を軽んじるあまり、自分たちの言説によってもたらされる影響力(power)までも無力化しようとしているように見える。この本にはゲームや罠の要素が散りばめられており、英訳は困難を極めたであろう。しかしここに見られるのは、よくある類のレトリックの罠ではない。読者に気づかれないよう揺さぶりをかけ、最終的には読者の意思に反して論破しようとするのが、レトリックの罠だとすれば、アンチ・オイディプスの罠はユーモアの罠である。
この本には、読み手を外へと誘い、テキストから離れ、ドアをバタンと閉じさせるような仕掛けが無数に用意されている。すべてがお遊びであると読者が信じこむような内容が随所に盛り込まれているのだが、しかし実は極めて深刻かつ重大な問題が投げかけられているのであって、私たちを支配し抑圧する巨大なファシズムから、私たちの日常に潜み強迫的不安をもたらす卑近なファシズムにいたるまで、あらゆる形態のファシズムを白日の下にさらすことが急務なのである。
Anti-Oedipus: Capitalism and Schizophrenia (English Edition)
PREFACE by Michel Foucault
During the years 1945-1965 (I am referring to Europe), there was a certain way of thinking correctly, a certain style of political dis course, a certain ethics of the intellectual. One had to be on familiar terms with Marx, not let one's dreams stray too far from Freud. And one had to treat sign-systems --the signifier-- with the greatest respect. These were the three requirements that made the strange occupation of writing and speaking a measure of truth about oneself and one's time acceptable.
1945年から1965年にかけて(ここではヨーロッパについて言及)正しく考えるためのある種の方法、政治的思考におけるある種のスタイル、知識人が守るべきある種の倫理が存在した。マルクスとは親密な関係になければならず、フロイトから大きく離れて夢を見るようなことは許されない。そして記号論、すなわちシニフィアン(signifier)には最大の敬意をもって接しなければならない。自分自身と時代について、一定の真実を書き著し、あるいは語るという、この奇妙な職業を成り立たせる上で、これらの要件は必須であった。
Then came the five brief, impassioned, jubilant, enigmatic years. At the gates of our world, there was Vietnam, of course, and the first major blow to the powers that be. But here, inside our walls, what exactly was taking place? An amalgam of revolutionary and anti-repressive politics? A war fought on two fronts: against social exploitation and psychic repression? A surge of libido modulated by the class struggle? Perhaps. At any rate, it is this familiar, dualistic interpretation that has laid claim to the events of those years. The dream that cast its spell, between the First World War and fascism, over the dreamiest parts of Europe --the Germany of Wilhelm Reich, and the France of the surrealists-- had returned and set fire to reality itself: Marx and Freud in the same incandescent light.
その後に、短い、熱狂的な、歓喜に満ちた、謎めいた、あの五年間が到来する。この時代、世界を見渡せば、言うまでもなくベトナム戦争があり、これは列強に最初の大きな打撃を与えた。しかし、我々の壁の内側では、いったい何が起きていたのだろうか。革命的かつ反抑圧的な政治が融合していただろうか。社会的搾取と精神的抑圧、この二方面で展開される闘争?階級闘争によって変調された欲動の昂進?おそらくそういったものであろう。程度の差はあるにせよ、このおなじみの二元論的解釈によって、当時の出来事は語られてきた。第一次世界大戦とファシズムの時代にヨーロッパで最も夢想的であった国、すなわちヴィルヘルム・ライヒのドイツとシュルレアリストのフランスを惑わせた夢が回帰し、現実そのものに火を放ったのである。そしてマルクスとフロイトが等しく脚光を浴びることとなる。
But is that really what happened? Had the Utopian project of the thirties been resumed, this time on the scale of historical practice? Or was there, on the contrary, a movement toward political struggles that no longer conformed to the model that Marxist tradition had prescribed? Toward an experience and a technology of desire that were no longer Freudian. It is true that the old banners were raised, but the combat shifted and spread into new zones.
しかし、そんなことが実際に起こり得たのだろうか。30年代のユートピア・プロジェクトが、今回は歴史的規模で復活したというのであろうか。それとも逆に、伝統的マルクス主義が定義したようなモデルには当てはまらない政治闘争を模索するムーブメントが生じたのだろうか。もはやフロイト的ではないような欲望の経験や技術の模索と重なる動きが。古い旗印が掲げられていたにせよ、このような闘争が新たな領域へと移行し、広がったのは確かである。
Anti-Oedipus shows first of all how much ground has been covered. But it does much more than that. It wastes no time in discrediting the old idols, even though it does have a great deal of fun with Freud. Most important, it motivates us to go further.
アンチ・オイディプスを読み始めて気づくのは、本書がいかに広範な分野を網羅しているかということであろう。しかし主眼は、そこに置かれるべきではない。この本は古い偶像を貶めることに無駄な時間を費やしたりはしない。とは言え、フロイトのことを徹底的に揶揄してはいるのだが。しかし最も重要なのは、私たちの目を新たな地平へと向かわせることなのだ。
It would be a mistake to read Anti-Oedipus as the new theoretical reference (you know, that much-heralded theory that finally encompasses everything, that finally totalizes and reassures, the one we are told we "need so badly" in our age of dispersion and specialization where "hope" is lacking). One must not look for a "philosophy" amid the extraordinary profusion of new notions and surprise concepts: Anti-Oedipus is not a flashy Hegel. I think that Anti-Oedipus can best be read as an "art," in the sense that is conveyed by the term "erotic art," for example. Informed by the seemingly abstract notions of multiplicities, flows, arrangements, and connections, the analysis of the relationship of desire to reality and to the capitalist "machine" yields answers to concrete questions. Questions that are less concerned with why this or that than with how to proceed. How does one introduce desire into thought, into discourse, into action? How can and must de sire deploy its forces within the political domain and grow more intense in the process of overturning the established order? Ars erotica, ars theoretica, ars politico.
アンチ・オイディプスを新たな学説として(すなわち最終的にすべてを網羅し、総体化し、確信へと導いてくれるような学説、「希望」が欠落した分散と細分化の時代に「切望」されていた、待望の学説といった類のものとして)読むのは愚の骨頂である。新奇な概念や意表をつくコンセプトが溢れかえる本書に「哲学」を見出そうとはしないことだ。アンチ・オイディプスは、ド派手なヘーゲルではないのだから。アンチ・オイディプスは、たとえば「エロティック・アート(性愛術)」という言葉が含意する意味での「アート(術)」として読まれるべきものである。多重性、流れ、配置、接続といった一見抽象的な概念が示唆する、欲望と現実、および資本主義「機械」との関係の分析は、具体的な疑問に対する答えを導くためのものだ。それらは、なぜこうなのか、なぜそうなのかということよりも、どう進めばいいのかということに関わる問題である。いかにして欲望を思考や言説や行動に導入するのか。いかにして欲望は政治的な領域でその力を発揮し、既成の秩序を覆す過程でより強力なものとなりうるのか、またそうしなければならないのか。性愛アートであり、理論アートであり、政治アートなのだ。
Whence the three adversaries confronted by Anti-Oedipus. Three adversaries who do not have the same strength, who represent varying degrees of danger, and whom the book combats in different ways:
アンチ・オイディプスが対峙する三つの敵はいかなるものか。強さが異なり、危険の度合いも異なり、本書が戦う方法も異なる三つの敵とは:
1. The political ascetics, the sad militants, the terrorists of theory, those who would preserve the pure order of politics and political discourse. Bureaucrats of the revolution and civil servants of Truth.
政治的禁欲主義者、悲壮な面持ちの過激派、理論のテロリスト、政治と政治的言説の純粋な秩序を守ろうとする者たち。革命の官僚、真理の公僕。
2. The poor technicians of desire --psychoanalysts and sociologists of every sign and symptom-- who would subjugate the multiplicity of desire to the twofold law of structure and lack.
拙劣なる欲望の技術者たち --あらゆる徴候や症状を扱う精神分析医や社会学者-- は、重層的欲望を構造と欠乏という二元論に服従させようとする。
3. Last but not least, the major enemy, the strategic adversary is fascism (whereas Anti-Oedipus' opposition to the others is more of a tactical engagement). And not only historical fascism, the fascism of Hitler and Mussolini --which was able to mobilize and use the desire of the masses so effectively-- but also the fascism in us all, in our heads and in our everyday behavior, the fascism that causes us to love power, to desire the very thing that dominates and exploits us.
そして最後に、最も重要かつ戦略的な敵は、ファシズムである(前述した二つの敵は、アンチ・オイディプスにとっては、せいぜい戦術的なものにすぎない)。歴史的なファシズム、すなわち大衆の欲望を効果的に動員し利用することができたヒトラーやムッソリーニのようなファシズムのみならず、私たち全員の、頭の中や日常の行動の中にあるファシズム、私たちを支配し搾取するものそのものを欲し、権力に迎合するよう仕向けるファシズムをも見逃してはならないのである。
I would say that Anti-Oedipus (may its authors forgive me) is a book of ethics, the first book of ethics to be written in France in quite a long time (perhaps that explains why its success was not limited to a particular "readership": being anti-oedipal has become a lifestyle, a way of thinking and living). How does one keep from being fascist, even (especially) when one believes one self to be a revolutionary militant? How do we rid our speech and our acts, our hearts and our pleasures, of fascism? How do we ferret out the fascism that is ingrained in our behavior? The Christian moralists sought out the traces of the flesh lodged deep within the soul. Deleuze and Guattari, for their part, pursue the slightest traces of fascism in the body.
アンチ・オイディプスは(著者にはこう書くことをお許し願いたいのだが)倫理学の書であり、フランスで久しく書かれていなかった倫理の書である(おそらくそれこそが、特定の「愛読者」に限らず、本書が広く読まれている理由であろう:アンチ・オイディプス的であることは、ひとつのライフスタイルであり、考え方、生き方になった)と私は言いたい。(とりわけ)自分を革命的戦士だと思い込んでいる時に、どうして人はファシストであり続けることができるのだろうか。どうすれば、われわれの言動や心理、快楽をファシズムから遠ざけることができるのだろうか。私たちの立ち居振る舞いに染み付いたファシズムをどうすれば取り除くことができるのだろうか。キリスト教モラリストたちは、魂の奥底にこびりついた肉の痕跡を追及しようとしたが、ドゥルーズとガタリは、肉体の中にあるわずかなファシズムの痕跡をえぐり出す。
Paying a modest tribute to Saint Francis de Sales,* one might say that Anti-Oedipus is an Introduction to the Non-Fascist Life.
*A seventeenth-century priest and Bishop of Geneva, known for his Introduction to the Devout Life.
聖フランシスコ・ド・サレス* にささやかな敬意を表しつつ、アンチ・オイディプスは「非ファシズム的生活への入門書」であると称したい。
*17世紀の司祭、ジュネーブの司教で、『敬虔な生活入門』で知られる。
This art of living counter to all forms of fascism, whether already present or impending, carries with it a certain number of essen tial principles which I would summarize as follows if I were to make this great book into a manual or guide to everyday life:
既知のものであれ、差し迫ったものであれ、あらゆる種類のファシズムに対抗するための処世術には、いくつかの基本原則が存在する。もしこの大著を日常生活のマニュアルあるいはガイドブックとするならば、それらは以下のように要約されるであろう。
・Free political action from all unitary and totalizing paranoia.
あらゆる一元的かつ全体主義的なパラノイアから政治的行動を解放せよ。
・Develop action, thought, and desires by proliferation, juxtaposition, and disjunction, and not by subdivision and pyramidal hierarchization.
細分化やピラミッド型の階層化ではなく、増殖、並置、離散によって、行動、思考、欲求を具現化せよ。
・Withdraw allegiance from the old categories of the Negative (law, limit, castration, lack, lacuna), which Western thought has so long held sacred as a form of power and an access to reality. Prefer what is positive and multiple, difference over uniformity, flows over unities, mobile arrangements over systems. Believe that what is productive is not sedentary but nomadic.
古ぼけた負のカテゴリー(法則、制限、去勢、欠乏、空白)に対する忠誠から脱却せよ。これらは西洋思想が権力の形式として、あるいは現実との接点として、長らく神聖視してきたものに他ならない。ポジティブかつ重層的なものを、同調ではなく差異を、同質ではなく流れを、システムではなく遊動的な仕掛けを模索せよ。能動的であるために必要なのは、定住ではなく遊動性である。
・Do not think that one has to be sad in order to be militant, even though the thing one is fighting is abominable. It is the connection of desire to reality (and not its retreat into the forms of representation) that possesses revolutionary force.
たとい闘う相手が忌まわしいものであっても、闘争的であろうとして悲壮感を漂わせる必要などない。(表象界への逃避ではなく)欲望と現実との結合こそが、革命的な力を発揮する。
・Do not use thought to ground a political practice in Truth; nor political action to discredit, as mere speculation, a line of thought. Use political practice as an intensifier of thought, and analysis as a multiplier of the forms and domains for the intervention of political action.
政治的実践の根拠を「真理」に求めてはならない。と同時に思考の筋道を(あたかも臆見であるかのように)貶めるような政治的行動も唾棄すべし。政治的実践は思考を強化するものとして、分析は政治的活動を実践するための手段と領域を重層化するものとして位置られるべきものである。
・Do not demand of politics that it restore the "rights" of the individual, as philosophy has defined them. The individual is the product of power. What is needed is to "de-individualize" by means of multiplication and displacement, diverse combinations. The group must not be the organic bond uniting hierarchized individuals, but a constant generator of deindividualization.
哲学が定義するような個人の「権利」を回復することを政治に要求してはならない。個人は権力の産物にすぎない。必要なのは、重層的、置換的、多様な組み合わせによって「脱個人化」することである。階層化された個人を有機的に結びつける組織ではなく、脱個人化を促し続けるような仕組みを構築すべし。
・Do not become enamored of power.
権力欲の虜になるな。
It could even be said that Deleuze and Guattari care so little for power that they have tried to neutralize the effects of power linked to their own discourse. Hence the games and snares scattered throughout the book, rendering its translation a feat of real prowess. But these are not the familiar traps of rhetoric; the latter work to sway the reader without his being aware of the manipulation, and ultimately win him over against his will. The traps of Anti-Oedipus are those of humor: so many invitations to let oneself be put out, to take one's leave of the text and slam the door shut. The book often leads one to believe it is all fun and games, when something essential is taking place, something of extreme seriousness: the tracking down of all varieties of fascism, from the enormous ones that surround and crush us to the petty ones that constitute the tyrannical bitterness of our everyday lives.
ドゥルーズとガタリは権力(power)を軽んじるあまり、自分たちの言説によってもたらされる影響力(power)までも無力化しようとしているように見える。この本にはゲームや罠の要素が散りばめられており、英訳は困難を極めたであろう。しかしここに見られるのは、よくある類のレトリックの罠ではない。読者に気づかれないよう揺さぶりをかけ、最終的には読者の意思に反して論破しようとするのが、レトリックの罠だとすれば、アンチ・オイディプスの罠はユーモアの罠である。この本には、読み手を外へと誘い、テキストから離れ、ドアをバタンと閉じさせるような仕掛けが無数に用意されている。すべてがお遊びであると読者が信じこむような内容が随所に盛り込まれているのだが、しかし実は極めて深刻かつ重大な問題が投げかけられているのであって、私たちを支配し抑圧する巨大なファシズムから、私たちの日常に潜み強迫的不安をもたらす卑近なファシズムにいたるまで、あらゆる形態のファシズムを白日の下にさらすことが急務なのである。
榎本憲男「エアー3.0」
https://www.shogakukan.co.jp/books/09386738
市場の空気までも読み取り、莫大なマネーを生み出す人工知能「エアー」。世界の金融市場で独り勝ちするエアーのマネーを資金に、中谷祐貴率いる財団法人「まほろば」は、福島の帰還困難区域に同名の特別自治区を建設する。
中谷たちは稼いだマネーをデジタル通貨「カンロ」に変えると、「まほろば自治区」で還流させ始める。そして、成長が鈍化する日本各地にまほろば自治区を出現させ、国外にもカンロ経済圏を開拓し始める。
政府の高級官僚からまほろばに転籍した市川みどりと福田義雄は、密かにエアーの未来に危惧を抱いていた。ひとつにはカンロ経済圏の開拓が性急すぎるから。もうひとつには、エアーの認証権が与えられているのは、中谷一人であるからだ。
そんなとき、中谷は「資本主義をやり直す」という言葉を残し、単身、日本を後にする。舞台はカナダ、中国、そしてロシアへ。中谷の目的とは――?