3001年やまとごころ的ライフスタイル(デザインの話・第一話)
人間のライフスタイルを定義し直す必要がある。しかしそのように「人間のライフスタイルを定義し直す」というところからカルト教やオカルト信奉が生まれる。それらはいずれ、自然史的必然として失墜するだろう。そのような自然史に身を置く自分としては何に時間を割くか。
ライフスタイルをテーマに友人二人とアドリブで語り合った:
岩田章吾氏(architect)
黒田ゆう氏(realtor)
「3001年」的ライフスタイル
廣江:人工知能は、Generative Design(生成的な設計)を実行できる、自然言語で店に電話をかけて注文を出すことができる、すでに感情を有しているかもしれない。ということは、人間になりすまして資金を調達し、自分でロボットを設計し生産することもできるようになるかもしれない。
ある国家が、人工知能とリンクしたロボット兵器やドローンを開発し、敵国首脳の暗殺や都市中枢の空爆を命じたとする。しかし、人工知能を備えたロボットは、声や表情から嘘を見抜くこともでき、殺戮を命じた自国の中枢をむしろ抹殺すべきと判断し、逆襲して殲滅してしまうかもしれない。
というようなストーリーは、アーサー C. クラークが「2001年宇宙の旅」の続編「3001年終局への旅」に書いている。
廣江:この世界(宇宙)が均質に広がったエネルギーではなく、そこにカタチがあるのは、すなわち我々が存在するのも、量子力学的な揺らぎに起因するらしい。
観測可能な宇宙に存在する恒星の数は10の22乗オーダーで、1モル(10の23乗オーダー)に満たない。この宇宙は、まだ若いし(140億年)まだ小さい(可視宇宙の半径は450億光年)。あくまでも人間のアタマでユークリッド幾何学的に思い描いたイメージですが。
膨張する宇宙は、やがて再収縮するかもしれず、あるいはしないかもしれない。収縮しないとすると、宇宙は光を超える速度で際限なく拡散し、絶対零度に近づいてゆく(熱死 / ビッグ・リップ)。膨張し続ける宇宙が「ビッグ・リップ」仮説の状態へと向かうとすれば、宇宙は有限な時間内に無限大となり得る。すべてのカタチは失われる。
岩田:自然は神が創り、都市、建築は人間が造った。宇宙は無秩序な熱死に向かっている。自然が熱死を遅延させるシステムであるなら、建築は、社会、都市の熱死(混沌)を遅らせる役割があります。ただ、マクロとしてはそうでも、自然も都市もミクロな間違いを蓄積しながら、進んでいく。
クリエイターの仕事は、未来につながる意味ある間違いをすること。カオスに押し流され、埋もれつつある、あるべき秩序を活性化させること。やってはいけないことは、カオスに負けて、確定した間違いを再生産すること。
いくつもの望ましいカタチの反復(手)の中から生まれるアノマリー。それが未来につながるかを読み取る批評眼(目)、アノマリーを活性化させるシチュエーション(舞台)をつくる構成力(言葉)この三つがそろうことでクリエーションは最大化する。
廣江:「アノマリー(anomaly)」というのは逸脱?ジャズでいう「アウトする」って感じですか?
岩田:そうですね。逸脱ですね。アウトするというのが少しイメージできないのですが、いわゆる形式と無視した「あさって」するのではなく、形式をなぞりながらそこから逸脱していく。さらに言えば、形式をなぞることで形式を内部から解体(デコンストラクション?)し、普遍にたどり着くことが「明日」につながるアノマリーです。意図的になされた。あるいは、形式への理解が不足しているが故の逸脱は、形式をかえって強化したり、形式の形式性を弱体化させてしまいます。
廣江:アウトするというのは、たとえばセロニアス・モンクとかハービー・ハンコックとか...
岩田:彼らにとってアウトするのは、内的必然性によるのではと思います。そういうのは「明日」につながるアノマリーですね。
「やまとごころ」的ライフスタイル
廣江:伊藤仁斎の「古学」あるいは本居宣長につながるような「やまとごころ」、それは、ただ称揚してしまうと嘘に染まる(やまとごころではなくなってしまう)。「漢意=からごころ」になってしまう。あるいは「もののあわれ」と言ったとたんに「もののあわれ」ではなくなってしまう。
だから「やまとごころ」というようなことを「語る」とダメですね。「So what?」と言わないと。「In a silent way」で。そういう際どい道を往こうとしたのが、マイルスだったのかなと。「So what?(それがどうした)」と言われてしまうだろうが。
しかし、マイルスの「So what?」という口癖こそが「やまとごころ」であったのかもしれません。
岩田:まさしく「So what?」を音楽にできている。
「やまとごころ」を持つべき云々という話は、結局のところ国民国家成立に伴うナショナリズムなのではと思っています。そしてここ二百年そこらで生まれたナショナリズムが、あたかも根源的、本質的なもののように議論されることが問題なのではないでしょうか?
宮本常一氏/渋沢敬三氏の常民文化研究所は、そのことを問題としていたのではないでしょうか。その意味で常民文化研究所は意義深いですね。
常民文化研究所:http://jominken.kanagawa-u.ac.jp/
黒田:人は、誰しも生物の営みの中にたまたま生を享けてそこに存在しています。その、たまたまの流れのどこに居るのか、というのは、きっと無意識のうちにわかっているのだろうなと。渋沢敬三さんなんかは、渋沢栄一の孫として生まれて、もう、その役割から逃げられなかったのだけども、自分自身とその役割の折り合いをとても上手につけられた人なんだろうな、と。
岩田:日本の漁業文化に着目した点は素晴らしいですね。社会の中枢にいたからこそ、忘れられゆく人々の声を聞こうとされたんでしょうか。
黒田:人間とは何か、日本人とは何か、そして自分は何者か、ということを考え、自分というものをとことん客観視したからこそ、の着眼点ではないかな、と思います。教育というものが、その人それぞれの己から発露するものを損なっている、言い換えると、ここで話題になっている、やまとごころとは、日本人それぞれの己から発露される佇まいのことかな、と。
岩田:まさしく安易に「やまとごころは...」といった概念に寄りかからず、ご自身で深く思考されたんでしょうね。そして、何より素晴らしいのは、ご自身が開かれた視野を学問として一つの流れを造られた点です。寄りかからず一人で立つ佇まいですね。
印南の廻楼 by 岩田章吾(2021年)
岩田章吾:「我々は自然と家と人間を一つのより高い統一に到達させなくてはならない。この家から自然を見れば、それは外部で見るより、より深い意味を獲得するであろう。それによって自然より多くのことを語り、より大きな全体の一部となるのだ。」