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理性の公的な利用と私的な利用(ブランディングの話その12)

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友人たちとの対話より:

18世紀の哲学者カントは、理性の「公的な使用」について以下のように書いています。

自分の理性を公的に使用することは、いつでも自由でなければならない。
自分の理性を私的に使用することは、ときとして著しく制限されてよい。
(「啓蒙とは何か」1784年)

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カントの文脈においては、理性の「私的な使用」とは、いわゆる「パブリックセクター」の一員(例:公職・官職に就いている者)として発言・行動すること等を含意します。

そのように、自分の理性を「私的に使用する」ことは、「厳しく制約されることもあるが、これを制約しても啓蒙の進展がとくに妨げられるわけではない」としています。

将校は「議論するな、訓練を受けよ」と叫ぶ。税務署の役人は「議論するな、納税せよ」と叫ぶ。牧師は「議論するな、信ぜよ」と叫ぶのである。

このような私的な「叫び」は、著しく制限されてよい。一方、自分の理性を公的に使用すること、すなわち上記の一節でいえば「議論(個人としての自由な立場から発言)」することは、いつでも自由でなければならない。

カントがもたらした認識(価値転倒)の意味はそういうものです。

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関連記事:公(オオヤケ)は私的。私(ワタクシ)が公的。
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