公(オオヤケ)は私的。私(ワタクシ)が公的。
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「理性の公的使用」について。
<理性の私的使用とは>
例えばパブリックセクターにおいて公職に就いている人は、自らの立場や組織の利害に沿った意思決定しか行なうことができない。
カントの見解に従えば、このような思考の運動(理性の使用)は「理性の私的使用」に他ならない。これは一般的なとらえ方、すなわち「パブリックセクター=公的な活動」であるという通念を覆すものです。
その上でカントは「自分の理性を私的に使用することは、時として著しく制限されてよい」としています。
<理性の公的使用とは>
では「理性の公的使用」とは何か。カントに従えば、例えば個人としての自由な立場から発言したり、世界市民として論文を発表するような活動こそが「理性の公的使用」、すなわちパブリックな活動であるとされます。つまり、そうした一見「私的」な行ないの中に「パブリック」な価値を実現する可能性があるのだと。
そして、それは「いつでも自由でなければならない」と、カントは述べています。
(※「理性を公的に使用することは、いつでも自由でなければならない」一方、「理性を私的に使用することは、時として著しく制限されてよい」)
こうした既存の価値観を転換するようなカントのインサイトは、取り返しのつかないほどの環境破壊が進むと同時に、世界経済の枠組みが大きく揺らぐ中、ひとりひとりの自由な個人にとって何が倫理的に正しい選択なのかを考える上で、非常に重要なことだと思います。
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