ブランディングにおける「目に見えないもの」(ブランディングの話その3)
"Believe in the thing-in-itself, even if it means sacrificing everything."
友人との会話から:
《交換様式Dに関して重要な点は、第一に、それがA・B・Cと異なり、現実に存在しないということである。第二に、それは人間の願望や理想の産物ではないということ、むしろ人間の意志に反して生まれてくるということである。(哲学の起源/柄谷行人)》
・平等で自由な社会の在り方(交換様式D)を、ユートピアのようなものとして想像・期待しても、望み通りには実現しない。しかし、それは「人間の意志に反して」生まれてくるのだということ。それは、目に見えるもの(感性的なもの、経験的なもの)の向こう側に、目に見えないものがあるということを意味します。
・カントの用語でいうところの「物自体(thing-in-itself)」
・しかし、そうした「目に見えないもの」を語りはじめると、それはすぐに偶像化されてしまいます。スピリチュアルな何かとか。
・結局「目に見えないもの」を「目にみえるもの」の側に投影することになってしまう。内面化することになります。
・それは、人との「交通」あるいは「かきまぜること(by 高橋博之氏)」の回避や忌避に帰結するだけです。
都市と地方をかきまぜる「食べる通信」の奇跡/高橋博之
・一方、構造主義的考え方においては:「目にみえるもの」は、ある何らかの「フォーマット」に依拠して成立するものにすぎません。そこにはただ「フォーマット」があるだけなのだと。
・そうした認識は、容易にニヒリズムと結びつきます。些細な出来事を大袈裟に取り上げ、そこでの価値観の転倒を「洗練」と見せようとするようなアイロニカルなポーズもそういうものです。
・柄谷さんは、カントがいうところの「物自体」を、ごくありふれた存在として提示します。それは過去の死者であったり、まだ生まれていない未来の若者であったり、あるいは市井の民であるかもしれない。
・そのようなありふれた「他者(あるいは自分自身)」を「手段としてのみならず目的としても扱う」こと。カントの倫理学の根本にはそれがあります。
・そうした倫理を実現するプロセス(=歴史)を我々は生きていると「見做してよい」とカントは言います。あくまでも見做すだけなのですが。そう考えることが「一般意志」なのです。
・たとえば、フォルクスワーゲンの「Think small.」という広告メッセージも、一般意志へ向かうことをオーディエンスに求める命令形になっています。
・Colin Kaepernickを起用した NIKEのメッセージもそうですね。
"Believe in something, even if it means sacrificing everything."
柄谷行人「倫理21」より:
先進資本主義国家は、その『国民』の幸福のために、将来の危機において戦争を辞さないでしょうし、『国民』の間にナショナリズムを喚起するでしょう。そのような事態を避けるために、われわれは何かをしなければならない。そうしたとしても、われわれが得をすることはないし、未来の人間から感謝されるわけでもありません。
にもかかわらず、そうすべきだということは、われわれ自身の問題です。それは、未来の他者を目的として扱うということです。