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大量消費をボイコットしはじめた生活者視点からのインサイトメモ

21世紀の「精神」とは(ブランディングの話その4)

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私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、
明治の精神に殉死するつもりだと答えました。
夏目漱石「こころ」

ある友人との会話から:

柄谷行人さんが「精神とはなにか」について語った番組(1986年)の録画が、YouTubeにアップロードされています。

https://youtu.be/G-uihYeOoZU?t=295

07:00頃:「精神とは謂わば自分をシステムから引き剥がそうとする意志である(というような意味のことをデカルトは書いている)」のだと。

このビデオにあるように、精神とは「謂わば自分をシステムから引き剥がそうとする意志」だとして、言い換えると「自分がシステムに取り込まれているということを知る」ようなチカラなのだとして、現実世界の日々のライフスタイルにおいて、それはどのような形をとるのか。

というようなことを考えていました。

19世紀的な「近代的」価値観が、主観とか主体から生じる創造性に重きを置いていたとすると、20世紀的な「現代的」価値観においては、すべてが「システム」の働きとして捉えられる。(ざっくりとした時代区分ですが)

遺伝子工学も、量子力学も、宇宙物理学も、人工知能も、すべて同一の方法(物理学や数学)を適用ことができるし、そのようなものとして論じられている。

そうした状況において、「精神」「意識」「感性」等々、そのようなものは、どこに存在する余地があるのか。(そういうものは無いと言ったほうが早いのではないか)

唯一それがあるとすれば、「自分はシステムの中で考えているのではないか?」と疑うことにおいて、「精神」というようなものの働きが存在するのだと。

しかし「システムの外部へ出る」と言った途端、人はシステムの内側の延長でしかないような何かに舞い戻ってしまう。

ジャズという音楽も、そういうようなものです。

既存のシステム(コードや音階)から常に自分を引き剥がそうとする音楽。

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