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大量消費をボイコットしはじめた生活者視点からのインサイトメモ

社会構成体の変遷を「交換様式」から読み直す試み

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今の時代の所謂「閉塞感」の中で、オルタナティブなライフスタイルやビジネスのあり方を模索するには、どうすればいいのか。

たとえば:「問題解決の原動力となるべきイノベーションが足りないのではないか」というようなことがよく言われるわけですが、そのような議論では、真の解決は見出だせないのではないかと僕自身は物足りなさを感じていました。

学生時代から柄谷行人氏の著作に注目し、愛読してきました。難解な文芸評論で有名な柄谷さんですが、90年代以降は社会構成体の歴史、すなわち「世界史の構造」を「交換様式」から読み直す試みを「探究」し続けておられます。

柄谷氏の「交換様式」論は、以下のようなシンプルなマトリクスからなるものです。

[交換様式の4つの象限]
交換様式A:贈与と返礼という互酬交換
ドミナントな社会構成体=共同体(平等で不自由)

交換様式B:略取と再分配または服従と安堵
ドミナントな社会構成体=国家(不平等で不自由)

交換様式C:商品交換(貨幣と商品)
ドミナントな社会構成体=資本(不平等で自由)

交換様式D:
定住によって失われた遊動性の高次元での回復

交換様式A/B/Cが高度に発達した段階で
普遍宗教が可能性を開示(平等で自由)

この中で、「交換様式D(平等で自由な社会の在り方)」は、永続的・安定的に存在したことがなく、人々の視界の中に入ってこない。そのため、我々は共同体と国家と資本主義がメビウスの輪のように錯綜する中を堂々めぐりしてしまうしかない。

では、柄谷氏がいうところの「交換様式D」は、いかにして実現されるのか?あるいは実現されてきたのか?

それは「普遍宗教」というカタチをとるのだと柄谷さんは言います。そして、ここでいうところの「普遍宗教」は、いわゆる「宗教」ではないのだと。一般的な「宗教」は多くの場合、ムラ社会的な共同体(交換様式A)に帰結するからです。むしろ唯物論的な取り組み(文学・哲学等のリベラルアーツを含む)によってこそ「普遍宗教(交換様式D)」は実現されるのだと。

《交換様式Dに関して重要な点は、第一に、それがA・B・Cと異なり、現実に存在しないということである。第二に、それは人間の願望や理想の産物ではないということ、むしろ人間の意志に反して生まれてくるということである。》

平等で自由な社会の在り方を、ユートピアのようなものとして想像・期待しても、望み通りには実現しない。しかし、それは「人間の意志に反して」生まれてくる。

【哲学の起源/柄谷行人】
どんな社会構成体も四つの交換様式の接合としてある。ただ、それらはどの交換様式が支配的であるかによって違ってくる。たとえば、氏族社会では、交換様式Aが支配的である。現実には交換様式BやCの要素も存在するのだが、Aによって抑えられているのである。つぎに、国家社会では、交換様式Bが支配的であるが、むろんここには交換様式AやCも存在する。たとえば、農村共同体が存在し、都市には商工業がある。近代資本制社会では交換様式Cが支配的となるが、旧来の交換様式AとBは存続する。封建国家は近代国家、そして、解体された農業共同体は「想像の共同体」としてのネーションに変形される。かくして、資本=ネーション=国家という接合体が形成される。それが現在の社会構成体である。(中略)

交換様式Dに関して重要な点は、第一に、それがA・B・Cと異なり、現実に存在しないということである。第二に、それは人間の願望や理想の産物ではないということ、むしろ人間の意志に反して生まれてくるということである。

https://www.iwanami.co.jp/book/b261012.html

【交換様式論入門/柄谷行人】
人類が狩猟採集遊動民であった段階では、(交換様式)B・Cだけでなく、Aも存在しなかった。そこでは、生産物は均等に分配されたと見てよいでしょう。遊動しているため、蓄積することができないからです。遊動的バンドは、狩猟のために必要な規模以上には大きくならず、また小さくもならなかった。集団の成員を縛る拘束もなかった。他の集団と出会ったときも、簡単な交換をしただろうが、戦争にはならなかった。このような状態を、私は原遊動性Uと名づけます。(中略)

DはAの回帰ではなく、Uの回帰です。したがって、それは過去ではなく、未来を志向します。とはいえ、それは人間の願望や空想とは異なり、反復強迫的なものです。Dがもたらすのは、A・B・C がもつ「力」への様々な対抗の可能性です。それは最初に宗教のレベルであらわれたと述べましたが、それは宗教に限定されない。文学においても、哲学においてもあらわれます。

http://www.kojinkaratani.com/jp/pdf/20171207_jp.pdf

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