AIを使うと、考えなくなりますか(後編)
前編では、AIを語る前に使い込むこと、道具の得手不得手は実体験からしか分からないことを書きました。残された問いは、これです。
「AIを使うと、考えなくなりませんか」
この問いは、真面目な人ほど本気で心配しています。
結論から言えば、逆です。AIを使うことで、人はより深く考えられるようになります。ただし、条件があります。
確かに、考えなくなる人はいます
まず、認めるべきことを認めましょう。AIを使って考えなくなる人は、実在します。
誰かから与えられた仕事をAIに入力し、出てきたアウトプットをそのまま渡す。そこに自分の考えも判断も加えない。私は、こういう働き方を「AI係」と呼んでいます。
確かに、仕事は捗ります。楽もできます。しかし、経営の目で見れば、答えは明らかです。そのような人に高い給与を払う合理性は、どこにもありません。指示を右から左へ流すだけなら、あいだに人間を挟む必要がないからです。AIエージェントに直接任せれば、より速く、より安く、休みなく働いてくれます。
「AIに仕事を奪われる」という言葉は、こうして現実になります。AIが人間を押しのけるのではありません。判断を加えず、責任も引き受けない働き方を選んだ人間が、自らを取り替え可能な存在にしてしまうのです。
給与とは、突き詰めれば、判断と責任への対価です。それを手放した人に、対価を払う理由は残りません。
ただし、ここで見誤ってはいけないことがあります。「AI係」になるのは、AIを使ったからではありません。考えることを面倒だと感じ、その手間を省く道具としてAIを選んだからです。AIがなければ、その人は上司の指示を右から左へ流していたはずです。道具が変わっただけで、姿勢は前から同じなのです。
AIは、思考を止める装置ではなく、深める装置です
ここからが本題です。
AIを、答えを出してもらう装置だと思っている限り、その人は考えなくなります。しかし、AIは答えを出させる装置としてよりも、問いを深める装置として使ったときに、はるかに大きな働きをします。
たとえば、こんな使い方があります。
自分の考えを言葉にして、まずぶつけてみる。すると、その考えの穴が見えてきます。前提を尋ねてみる。自分が無意識に置いていた仮定が、明るみに出ます。逆の立場から反論させてみる。自分では思いつかなかった角度が現れます。三つの案を出させて、そのどれもが違うと感じたとき、自分が本当に何を求めていたのかが、はじめて分かります。
これは、思考の代行ではありません。思考の壁打ちです。
そしてここには、人間相手にはなかなか成立しない条件が揃っています。何度でも問い直せます。同じことを三度尋ねても、嫌な顔をされません。根拠を示せと迫れます。自分の未熟な考えを、恥ずかしがらずに晒せます。上司や先輩に、そこまで容赦なく食い下がれるでしょうか。相手の時間と機嫌を気にせずに思考を往復させられる相手は、これまで存在しませんでした。
考えるとは、問いを立て、答えを検め、また問い直すことです。その往復の回数が、思考の深さを決めます。AIは、その往復の回転数を、桁違いに上げてくれる道具なのです。
さらに言えば、知識を借りるコストが下がったぶん、人間に残された仕事の水準は上がりました。調べる、まとめる、整えるといった作業から解放された時間を、判断に使えるかどうか。そこが問われているのです。考えなくてよくなったのではなく、より上流の、より難しいことを考える番が回ってきたのです。
ハルシネーションを恐れるということ
AIは、誤ったことを、いかにも正しそうに述べることがあります。いわゆるハルシネーションです。これを恐れて、使うことをためらう人がいます。
しかし、これなどは、あわよくば自らの思考や意志を使わずにAIに頼りたいという、浅はかな期待の表れではないでしょうか。「間違えないのなら、丸ごと任せられるのに」という前提が、そこには隠れています。裏を返せば、間違えないのなら考えなくてよい、と言っているのと同じです。
つまり、ハルシネーションを理由にAIを避ける人こそが、「AIを使うと考えなくなる」ことを、無意識に望んでいるのです。
考えてみてください。人間の社会にも、ハルシネーションはあります。
信頼している上司や先輩が、正しいと信じて誤ったことを教えてくれることがあります。親兄弟が、善意から、時代の変わった常識を授けてくれることもあります。業界の権威が語る「常識」が、すでに実態と合っていないことも珍しくありません。悪意はどこにもありません。それでも、誤りは誤りです。
私たちは、それをどう扱ってきたでしょうか。話を聞き、参考にし、腑に落ちないところは自分で確かめ、最後は自分の責任で判断してきたはずです。相手を信頼することと、判断を丸ごと委ねることとは、別のことだからです。
これは、AI以前から私たちが引き受けてきたことです。AIになって、突然、新しい難題が現れたのではありません。ハルシネーションを理由にAIを避ける人は、人間相手にも同じ危険にさらされていることに、気づいていないだけなのです。
むしろAIには、人間相手にはやりにくいことができます。出典を示させ、反対の立場から検証させ、根拠が薄いところを自分で指摘させることもできます。誤りを見つけやすいという点では、扱いやすい相手です。
そして何より、「これは本当だろうか」と身構えながら読むことほど、思考を鍛える営みはありません。ハルシネーションは、AIを使う理由を減らすものではなく、疑う力を鍛える砥石なのです。
もちろん、その見極めには実践知が必要です。どのあたりで間が抜けやすいか、どういう問いに弱いか、どこまでなら信じてよいか。この勘所は、使い込んだ人にしか身につきません。ここでも、結論は同じです。使わなければ、恐れは減りません。
「引き受ける」とは、責任をとることです
なぜ、AIを使いながら考え続けられるのか。その根っこにあるのは、責任です。
私たちは、人間の世界に生きています。会社であれ、家族であれ、地域であれ、取引先との関係であれ、そこには他者がいて、その他者に自分の判断の結果が及びます。だから、判断には責任が伴うのです。
そして、AIがどれほど賢くなっても、結果に対して責任を負うのは、常に人間です。
AIは、謝罪できません。信頼を失うこともありません。取引先の前で頭を下げることも、部下の人生を背負うことも、失敗を教訓として抱え続けることもできません。責任とは、痛みを引き受ける主体があってはじめて成立するものだからです。責任を負えない存在に、責任を負わせることはできません。
つまり、AIの出した答えを採用すると決めた瞬間に、その答えはもうAIの答えではなく、自分の答えになります。「AIがそう言ったので」は、人間の世界では通用しません。それは責任の所在をずらそうとする言葉であって、責任を分け合う言葉ではないのです。
ここに、先ほどの「条件」があります。責任を引き受ける覚悟のある人にとって、AIの出力は、そのままでは通せない素材です。だから検め、問い直し、突き合わせ、考える。責任があるからこそ、考えざるを得ないのです。
逆に言えば、責任を手放した人は、AIがなくても考えません。AIは、その姿勢を増幅するだけです。考えなくなる原因は、道具の側ではなく、引き受ける覚悟の有無にあります。
そう考えれば、AIをどこまで使うかという問いは、技術の問いではなく、覚悟の問いだと分かります。任せられるのは作業であって、責任ではありません。任せた部分についても、最後に引き受けるのは自分です。
これは、AIを警戒すべき理由ではありません。むしろ、使い込むべき理由です。責任を負う立場にある人間が、判断の材料をできるだけ多く、できるだけ深く手に入れておくことは、責任の果たし方そのものだからです。
答えを他人に委ねるということ
人に答えを求めて危険を避けようとすることは、自らの自由意志で思考し、行動するという人間の特権、すなわち人間であることの尊厳を手放し、他人に答えを委ねるということです。
カントは、1784年の小論「啓蒙とは何か」で、人が自ら招いた未成年状態から抜け出せないのは、理性が足りないからではなく、他人の導きなしに自分の理性を使う決意と勇気が足りないからだと書きました。だから「あえて賢くあれ(Sapere aude)」と。
カントは続けて、こうも書いています。私に代わって理解してくれる書物があり、良心を担ってくれる牧師があり、食事を判断してくれる医者がいるなら、自分で苦労する必要はない、と。この「代わりに考えてくれる他人」の列に、いま、AIが加わりました。240年前の言葉が、いまなお刺さります。
他人に答えを委ねる習慣を身につけた人は、やがて他人の言いなりになり、他人に支配されます。それはすなわち、AIの言いなりになり、AIに支配されるということです。
AIに支配される未来は、AIが強くなることによって訪れるのではありません。人間が、自分で判断し引き受けることを面倒だと感じ、その特権を自ら手放すことによって訪れます。
そして、使わない人が支配を免れるわけでもありません。使わない人は、使う人が作った世界の中で、与えられた答えに従って生きることになるだけです。考えないことを選んだという点では、「AI係」とまったく同じ場所に立っているのです。
知識は借りられる、実践知は借りられない
「AIを使うと、考えなくなりませんか」
この問いへの答えは、こうです。考えなくなる人もいます。しかしそれは、AIがそうさせるのではありません。考えることをやめると決めた人が、その決断を実行しやすくなるだけです。
同じ道具を、問いを深め、疑い、検め、引き受けるために使う人がいます。その人は、AIを使う前より深く考えるようになります。
知識は、借りられます。実践知は、借りられません。
知識は、AIから、いくらでも、たちまちに借りられるようになりました。だからこそ、借りられないものの価値が上がったのです。それは、自ら使い、自ら失敗し、自ら判断し、その結果を引き受けた人の中にしか宿りません。借りた知識を右から左へ流すだけなら、そこに自分は要らないのです。
考えて分からなければ、行動する。行動して確かめ、そこから考える。その往復のなかで、自分の正解が形になっていきます。
そして、その正解の結果を引き受けるのは、いつでも自分です。だからこそ、それは「自分の」正解なのです。
いずれにしても、使えば分かります。
『AI実践ドリル30日チャレンジ 仕事にすぐ効くAI活用』(日経BP)を紹介する連載が、日経クロステック(xTECH)に掲載されました。
第1回 ビジネスパーソンが生成AIの有償版を使うべきである理由
第2回 「事業変革推進室長」として生成AIで新規事業を企画する
第3回 AIの「魔法」をメール作成と悩みの「壁打ち」で体感
第4回 新規事業の「3段階の自立シナリオ」をAIで描く
第5回 AIにいきなり「斬新なアイデア」を求めるのは避けよ
本書は、これまでのAI本とは毛色が異なり、新規事業開発やマーケティングの実践ノウハウを、AIを使いながら体験的に学べる「ドリル」です。AIの使い方を解説するのではなく、実際のビジネスの現場でどう使いこなし、新しい価値を生み出せばいいのかを、手を動かしながら身につけていただけます。
「AIをどう使うか」に留まっている限り、AIの真価は引き出せません。「AIでどう変わるか」、すなわちAIを前提として、仕事のやり方をどう変えればいいのか。それをお伝えしたくて書いた本です。まだの方は、ぜひご一読ください。
どうぞよろしくお願いいたします。
