使わない人ほど、AIを語りたがる (前編)
私は、AIにはかなり貢いでいます。主要なサービスはいずれも最上位のプランを契約し、用途に応じて使い分け、組み合わせて使っています。
そんな私は、しばしば次のようなことを尋ねられます。
「AIでは、こういうことは無理ですよね」
「AIサービスを、どのように使い分ければ良いでしょうか」
「AIを使うと、考えなくなりませんか」
このようなことを尋ねてくる人たちには、ひとつの共通点があります。それは、たいして使っていない、という事実です。
いずれも、使えば分かります。それをせずに他人に尋ね、「使わない理由」を探しているのだとすれば、なんとも残念な話です。
「頭だけで答えを出す」ことの愚かさ
変化が速く、不確実性の高まる世の中に、あらかじめ用意された正解はありません。過去の経験や知識の蓄積の中に答えを見つけようとしても、限界があります。蓄積とは、過ぎ去った条件のもとで正しかったことの集積であって、いまこの状況で正しいことの保証ではないからです。
だから、使ってみて、体験してみて、その結果から考えて、自分の正解を創り出すしかありません。答えは、探し出すものではなく、創り出すものです。
考えるな、と言っているのではありません。考えることは、出発点として不可欠です。ただ、考えても分からないときに、なお考え続けて動かないのは、思考ではなく足踏みです。分からなければ、行動し、実践し、確かめる。そこではじめて、考えるための材料が手に入ります。
「AIでは無理ですよね」という問いかけは、たいていの場合、質問の形をした結論です。確かめる前に答えを決め、その答えに賛同してくれる人を探している。そこには、考えた形跡はあっても、確かめた形跡がありません。
ノコギリと小刀
道具には、得手不得手があります。
太い木を倒すならノコギリ、小枝を削るなら小刀です。ノコギリで鉛筆は削れませんし、小刀で丸太は切り倒せません。どちらが優れているかという問いに意味はなく、何に、どう使うかだけが問われます。そして、その使い分けを、道具の説明書から学んだ人はいないはずです。刃の入り方、力の入れどころ、木目の逆らい方。手を動かし、何度か失敗して、はじめて身につくものです。
AIも、まったく同じです。
何が得意で、何が不得意か。どこまで任せられて、どこから自分が引き受けるべきか。どんな問いには強く、どんな問いには脆いか。それは、カタログにも、他人の評判にも、書いてありません。使い込んだ手触りからしか生まれない見立てです。
しかも、AIという道具が厄介なのは、道具の側だけを測っても足りないところです。使ってみてはじめて、自分の側の輪郭も見えてきます。自分が仕事のどこで価値を生んでいたのか、どこは惰性で手を動かしていただけだったのか。AIに任せてみると、それが容赦なく浮かび上がります。
つまり「使い分け」とは、AIを知ることと、自分を知ることの、両方なのです。他人に尋ねて手に入る類のものではありません。
実践知こそが、境界線です
アリストテレスは『ニコマコス倫理学』(第六巻)で、知を三つに分けました。普遍的な真理を扱う知(エピステーメー)、ものを作る技術としての知(テクネー)、そして個別の状況において何が最善かを判断する知(フロネシス=実践知)です。
AIが極めていくのは、前の二つです。文字にでき、移転でき、普遍化できる知識の領域です。ここで人間が張り合う意味は、もはやありません。
一方、フロネシスは違います。アリストテレスは、若者が数学に秀でることはあっても、実践知を備えた若者は見当たらない、なぜなら実践知は個別の経験からしか得られないからだ、と述べています。「いま、ここ」の固有の状況に身を置き、揺れる条件のなかで何が善いかを判断し、選び、その結果を引き受ける。実践知は、その繰り返しによってしか育ちません。
書物から学べるのは実践知についての知識であって、実践知そのものではありません。自転車の乗り方を記した文章をいくら読んでも、乗れるようにはならないのと同じことです。マイケル・ポランニーが「私たちは、語れることよりも多くのことを知っている」と言い当てた、暗黙知の領域です。
野中郁次郎氏は、竹内弘高氏との論文「The Wise Leader」(Harvard Business Review, 2011年5月号)で、この実践知を備えた経営者を「賢慮のリーダー(ワイズリーダー)」と呼びました。文脈を読み、その都度の最善を判断し、責任を引き受ける人です。その議論は、のちに『ワイズカンパニー ── 知識創造から知識実践への新しいモデル』(東洋経済新報社、2020年)へと展開されます。実践知は、知識の量ではなく、実践の量によって鍛えられる。それが、一貫した主張です。
蓄積された知識・普遍化された知識に土台を置くAIと、実践や体験によってしか身につかない人間の知性。両者を分ける境界線は、この実践知の上に走っているのです。
そして皮肉なことに、この実践知は、AIを使いこなすためにこそ、ますます必要になります。どこまで任せ、どこから自分で引き受けるか。出てきた答えを信じるか、疑うか。その判断は、使い込んだ手触りからしか生まれません。使わない人は、AIを評価する資格すら手にできないのです。
「使っているつもり」の人へ
さて、ここまでは「使わない人」の話でした。しかし、話はもう少し厄介です。
「使ってみたけれど、たいして役に立ちませんでした」と言う人がいます。よく聞いてみると、無償版を何度か触っただけ、というのが実情です。
無償版と有償版とでは、できることが違います。使えるモデルの性能が違い、文脈を保てる長さが違い、扱えるファイルが違い、外部の道具と連携できる範囲が違います。無償版を試して「使えない」と結論するのは、試供品を触って製品を評価するようなものです。よく切れないノコギリで木を挽いて、「ノコギリは使えない」と言っているに等しいのです。
お金をかけたくても経済的に余裕がない、という人もいるでしょう。ならば、最上位のプランでなくてもかまいません。最も安い有償プランから始めてはいかがでしょうか。それさえも惜しいというのなら、話になりません。
私も、はじめから最上位のプランを使っていたわけではありません。使い続けるうちに、使った方が安上がりだと気づいたのです。
考えてみてください。優秀な部下や秘書を、月に数万円で雇えるでしょうか。AIは、それ以上の働きで自分の仕事を助けてくれます。これは、安い買い物です。
そして、この感覚もまた、使うから分かるのです。使わない人には、高いか安いかを判断する材料すらありません。
たばこや漫画、ゲームに払う金額を思えば、支払う額は似たようなものです。いずれも、人生を豊かにしてくれます。ならば、自分の知性を豊かにするものに払うことを、なぜためらうのでしょう。
使えば分かる
知識は、借りられます。実践知は、借りられません。
知識は、AIから、いくらでも、たちまちに借りられるようになりました。だからこそ、借りられないものの価値が上がったのです。それは、自ら使い、自ら失敗し、自ら判断し、その結果を引き受けた人の中にしか宿りません。
考えて分からなければ、行動する。行動して確かめ、そこから考える。その往復のなかで、自分の正解が形になっていきます。
いずれにしても、使えば分かります。
後編では、「AIを使うと、考えなくなりませんか」という問いについて、深堀します。
『AI実践ドリル30日チャレンジ 仕事にすぐ効くAI活用』(日経BP)を紹介する連載が、日経クロステック(xTECH)に掲載されました。
第1回 ビジネスパーソンが生成AIの有償版を使うべきである理由
第2回 「事業変革推進室長」として生成AIで新規事業を企画する
第3回 AIの「魔法」をメール作成と悩みの「壁打ち」で体感
第4回 新規事業の「3段階の自立シナリオ」をAIで描く
第5回 AIにいきなり「斬新なアイデア」を求めるのは避けよ
本書は、これまでのAI本とは毛色が異なり、新規事業開発やマーケティングの実践ノウハウを、AIを使いながら体験的に学べる「ドリル」です。AIの使い方を解説するのではなく、実際のビジネスの現場でどう使いこなし、新しい価値を生み出せばいいのかを、手を動かしながら身につけていただけます。
「AIをどう使うか」に留まっている限り、AIの真価は引き出せません。「AIでどう変わるか」、すなわちAIを前提として、仕事のやり方をどう変えればいいのか。それをお伝えしたくて書いた本です。まだの方は、ぜひご一読ください。
どうぞよろしくお願いいたします。
