無知の自覚と許容なくして発展はない|書籍「科学の方法」を読んで
こんにちは。
雨の中、くるくる頭と格闘を余儀なくされる生粋の天然パーマ 松井です。
くるくる頭の天然パーマ、略してくるくるパ、、、やめておきますか。
今日はタイトルの通り、本の感想です。
感想の内容としては巷でよく言われているようなことなのですが、改めて強く感じたのでここにまとめておきます。自然科学から学ぶことはほんとうに多いなと思う次第です。
今回紹介する書籍は「科学の方法」。科学というものがこれまでどのような方法で新しい事実を発見してきたのか、といった部分に焦点を当てています。
本書を読み、感じたことは、絶え間なく発展してきた科学においても、常にわからないことがあり、また、理屈がわからないながらも現象に対して向き合い、その時点でわかっていることを有効に利用してきたのだなということです。
おそらく、わからないこと、また事実とは異なる間違ったことを完全に否定した場合にはその時点で発展は止まってしまうのだろうということも感じました。
そもそも、導き出した答えが完全に正しいということを証明するというのは不可能であるため、何かに対してこれが正解であると結論づけてしまうと、その時点で真実に近づく道を閉ざすことになるのだろうと、そう思うわけです。
世の中にはいくつも、ある時点での回答を結論としてしてしまったことの弊害があります。そのひとつの例として、かつて読んだ書籍「傷はぜったい消毒するな 」を取り上げます。
同書は創傷治療の現場について著者の体験を書き連ねたノンフィクションです。単なる創傷治療の方法にとどまらず、新しい方法を提唱した時の権威との軋轢などが書かれていてとても刺激的な内容となっています。
かつて創傷治療では消毒をするのが常識となっていましたが、同書の著者は消毒による生体機能の抑制により、傷口の自然治癒を妨げるという考えを打ち出しました。そして、実際に消毒を行わず、ラップなどでの治療をすることで驚くほど傷跡の残らない治癒が実現したのです。
しかし、この治療法が浸透するまでには紆余曲折があり、それまで消毒が正しいとされていた業界内から大きな非難を浴びたのです。
こうしたことも、ある時点の見解についてそれを結論としてしまったがためにあとから新しい、よりよい方法が見つかっても、認めるわけには行かなくなったということでしょう。
これは何も当事者だけの問題ではなく、第三者が間違いを認めないという環境にも問題があるといえます。
当事者や第三者を含めた人々が間違いや無知に対して理解を持っているならば、過去の常識に固執する必要もなくなり、結果としてよりよい方法を見つけることにつながるでしょう。
そういったわけで、物事が進歩発展するためには無知を認め、間違いを認め、道をつなぐ、という意識が必要になるのではないかと感じました。
そう、結論を出すのではなく次につなぐ。
現時点で最良の回答を出しつつも、次の可能性を許容する姿勢を常に持っておくのが大事なんではないでしょうか。