リーンソフトウェア開発の新刊が出ました。
Mary/Tom Poppendieck のリーンソフトウェア開発シリーズの第三作、
Leading Lean Software Development: The Results Are Not the Point
の訳が、依田光江さん訳、智夫さん監訳で出ました!
ぼくは、第一作、第二作とお付き合いさせていただいているので、ぜひとも、と査読をさせていただきました。以下は、私の「推薦の言葉」(日本語版に寄せて)です。
もしあなたが、自分の会社のソフトウェア開発を革新したい、できれば会社組織全体を顧客価値の創造に向けて変革したい、と思っているなら、この本はあなたのための本だ。さらに、最近聞くようになった「アジャイル」という言葉に関心があるならばなおさらだ。本書には、アジャイル開発を組織の中でどう位置づけ、推進して組織を変革し、それを顧客と経営の価値につなげるか、という「組織改革リーダーシップ」のあり方が書かれている。
本書は、メアリー・トム・ポッペンディーク夫妻による、”Leading Lean Software Development: Results Are not the Point”の邦訳である。この作品は、アジャイルソフトウェア開発をリーンの視点から解き明かしたシリーズの前2作、
- 2003年の”Lean Software Development: An Agile Toolkit”
(邦訳:2004年『リーンソフトウェア開発~アジャイル開発を実践する22の方法』 - 2006年の”Implementing Lean Software Development: From Concept to Cash”
(邦訳:2008年『リーン開発の本質~ソフトウェア開発に活かす7つの原則』)
に続く第3作であり、今回は特に組織改革に焦点をあてて書かれている。このシリーズを通して、アジャイル開発をリーン(トヨタ生産方式に源流を持つ、顧客価値の流れづくり)の言葉で語っており、ソフトウェア開発やプログラミング言語の詳細に入らずに、アジャイルの利点を分かりやすく書いている。British Telecom でアジャイル推進をしたロジャー・レイトンは、組織にアジャイルの理解者を増やすための活動として、「開発者にはXPの本を、PMにはScrumの本を、そして経営者にはLeanの本を渡せ」と言った。言いえて妙だと思ったが、確かに、企業内のさまざまな層で、さまざまな価値観があり、別々の語彙が使われている。リーンソフトウェア開発のこのシリーズは、はじめて、経営者が分かる言葉で、アジャイルを説明した。アジャイルがキャズムを超え、取締役会の席上で聴く言葉となったのは、ポッペンディーク夫妻の活動によるところが大きい。
さて、本書の見所を、私なりに上げてみよう。
1つ目は、2章のソフトウェア工学の歴史と、アジャイルの中のテスト駆動開発(TDD)、継続的統合(CI)、といった工学手法との関連付けだ。筆者の主張は、エドガー・ダイクストラの構造化設計の中の構成的手法(Constructive Programming)に、すでにTDDの萌芽があり、それに続く、ハーラン・ミルズのトップダウンプログラミングには、段階的統合(Stepwise Integration)という現在のCIの概念が含まれているという。アジャイルに含まれる工学手法は、ソフトウェア工学としてずっと過去から主張されてきたことなのだ。一方で、フェーズ(工程)を踏んで開発を進める、という「ソフトウェアライフサイクル」の考え方が、もっとも今日のソフトウェア開発を脆弱なものにしてしまっている、という。要するに、ソフトウェア工学の中の、「工学」部分は原則が安定して数十年進化してきているのに、「プロジェクト管理」部分は行ったりきたりを繰り返して一向に良くなっていない、というのが筆者の結論だ。そして、アジャイルが、リーン視点からみて、現在最も有効なプロジェクト管理手法でもある。さらに、可視化を使った最新のアジャイル手法であるKanban、についても本書では言及されている。
2つ目は、副題の”Results Are not the Point”(結果に着目するマネジメントの誤謬)、について。リーンの特徴は、ソフトウェア開発をはっきりと「人の活動」として捕らえていることである。顧客の目で価値を判断し、その流れを作る。そして、その流れを現場参画で改善し続ける。TPSに起源を持つこの考え方は、デミング博士の影響を大きく受けて育ってきた。デミング博士は、50年代,60年代の日本の製造業の品質への貢献で知られていが、アメリカがデミング博士を発見したのは80年代だ。TPSがリーンとして抽象化され、サービス業や医療業界、建築業界で適用されるにつれて、人間性を尊重するマネジメントのありかたについての革命が起こった。デミングは、ノルマや数値目標を掲げることをマネジメントの悪としているが、これが、この副題の「誤謬」を説明している。それを解く鍵は、組織をシステムとして見るシステム思考だ。この先の謎解きは、本書を読み進める読者の楽しみとしてとっておこう。
そして、3つ目は、組織改革の進め方だ。アジャイルを企業内で推進する場合、抵抗勢力に出会うことは全くめずらしくない。特に、スタートアップの数名の企業なら別だが、大きな組織になればなるほど、標準化部署の作った社内プロセス、各事業部門の予算との関係、既存の文化や価値観、評価制度や査定、といったものとの矛盾を克服する必要が出てくる。アジャイルは、エンジニアリングだけではなく、マネジメントだけでもない。企業を変えるには、さまざまなレベルの人を巻き込んで理解を作る必要があるのだ。本書では、豊富な事例を見ながら、改革推進のポイントを読み進めながら得ることができるだろう。
本書にはほかの見所は多いが、あとはみなさんに譲るとして、メアリー・トム・ポッペンディーク夫妻の出会いと交流について書きたい。私は2003年に夫妻に米国のアジャイルカンファレンスで出会い、このシリーズを日本で紹介したいと申し出た。以降、夫妻との交流は続いており、2007年には日本でのトヨタを初めとするリーンツアーに同行し、黒岩惠さん主宰のTPSソフト研究会との交流、2008年には本書で紹介されているトヨタの元チーフエンジニア片山信昭さんとの非常に意味深いインタビューをセッティングさせて頂いた。さらに、米国のAgile2008にてアジャイルとTPSとの関係について、共同で発表する機会も頂いた。というわけで、現在のアジャイルムーブメントの中で私が一番お世話になっているのが夫妻だと言って良い。また、今回は、訳者・監訳者として、依田光江・智夫夫妻が担当されるという幸運に恵まれた。夫妻は、『実践UML』に代表されるオブジェクト指向の良書を日本に紹介されてきており、私自身も大先輩として尊敬している。ポッペンディーク夫妻、依田夫妻、というチームに恵まれて、この日本語版が誕生した。その原文の新鮮で大量なナレッジを、読みやすい日本語でぜひ楽しんで欲しい。
最後にもう1つ。メアリーとトムは、自身のエンジニアとしての経験を元に本を執筆しているが、毎回、大量の文献調査とインタビューを実行しており、事実と実績に基づいた論理展開には、圧倒される。今回も、エンパイヤーステートビルディングの建設がリーンの流れで管理されていたこと(これも見所の1つ)、ソフトウェア工学の歴史の中にアジャイルのプラクティスが見えること、さらに、IBMでのリーン/アジャイル推進のインタビューを元にした事例などは、とても読み応えがある。
このように、本書は、ソフトウェア工学の知識本としても、さらに、組織改革者向けの実践本としても、さらには、事例や歴史の新解釈を楽しむ読み物としても、わくわくする、まさに、贅沢な一冊だといえるだろう。すぐに本書を先に読み進めて欲しい。きっと、あなたの組織の改革を進めるための、知識と手がかり、さらには勇気が得られるはずだ。