SAP Helps 南アフリカ Run Better ~(8)タウンシップ Soweto 訪問、嵐と雹と虹
土曜日。この日は、ソーシャル・サバティカルのプログラムの一部として、ソウェト・ツアーが組まれた。
タウンシップ Township という言葉は南アフリカではよく聞く。タウンとタウンシップの違いは、後者はアパルトヘイト時代に隔離政策の一環として政府によって人工的に作られた街だ、ということ。いわゆる、(旧)黒人居住区のことだ。
もちろん現在では人種による居住地域制限はなくなっているが、実際には非白人の多くが今もタウンシップに住んでおり、ソウェト Soweto はその中でも国内最大。行政区域としての狭義のソウェトの人口は127万人だが、周辺を含めた「ヨハネスブルグ南西のタウンシップ(South Western Township=Sowetoの語源)」全体では400万人とも500万人とも言われており、南アフリカ共和国の人口の1割がソウェトに住んでいることになる。
アウェトゥ・プロジェクトが最大の力点を置いて活動しているのもソウェトだし、貧困、失業、非衛生、犯罪、エイズ、、、といった話題のときにお決まりのように引き合いに出される地区でもある。また1976年の「ソウェト蜂起」(後述)でも知られる。
■孤児院の子供たち
午前中はソウェト内にある、孤児院を訪問した。18歳までの子供が90人、赤ん坊が30人暮らしているとのこと。
孤児院はとても明るく、南アフリカの標準からしてもかなり清潔で、気持ちのよいところだった。芝生の庭には大きな木が茂り、大勢の子供たちが跳ね回って遊んでいた。
われわれがマイクロバスで到着すると、大喜びで近寄ってくる。事前にニーズを聞いて、簡単なおもちゃなどのお土産を持ってきていたこともあって(シャボン玉とか塗り絵セットとか、少し大きい子たちにはサッカーボールとかそんなものだが、)みな大はしゃぎ。
ちなみに日本人あるいは中国人は全員がブルース・リーかジャッキー・チェンだと思われている、という話はどうやら本当のようで(笑)、僕のところに集まってくる子供たちが最初に発する言葉は「カラーテ」(空手)だった。
赤ん坊たちがいる棟は、ちょうど日本の保育園のような雰囲気。ちょうど午前中のお昼寝の時間だったのか、寝ている子が多かったが、中に僕にしがみついて離れない子も。
正直にいうと、施設の水準は想像していたよりずっと高かった。施設長の女性がしっかりした人なのだろう。いろいろと説明をしてくれたが、もちろん経済状況などの課題を抱えつつも、自信をもって運営をしている感が伝わってきた。
しかし同時に、三児の親としては、内心の動揺を隠すのが精一杯でもあった。この子達には「親」はいないのだ。小さい子は、まだ生後数か月だというのに。
南アフリカでも養子縁組を希望する人はわりといるそうで、そうした縁に恵まれ養子としてもらわれていく子もいるそうだが、全員ではない。
今回われわれは、SAPから派遣されて、「南アフリカの経済発展の支援」のために来ている。頭ではそう理解していても、日々の活動にはどこか、(表現は適切ではないかもしれないが)「お金持ちによる余暇活動」な感覚が漂う。たとえば勤務先は治安の悪いヒルブロウでも、宿はサントンの快適なアパートメントだし。
しかしこの子たちにとっては、「経済発展」も「若者の失業率40~50%」もまったく他人事ではないのだ。経済が発展せず資金援助が細れば孤児院は運営できなくなるし、18歳になって出ていかなければならないときに職がなければ、身寄りのない彼らは食べていくことすらできないのだ。この、目を輝かせた子供たちが。
アウェトゥのメンバーを始め、誰もがこの問題に真剣に取り組んでいる。われわれも孤児院訪問で、認識を新たにする機会をもらった。
■アウェトゥの起業家、ママ・リンディ
ランチは、アウェトゥの起業家の一人、通称「ママ・リンディ」が最近オープンしたレストランへ。
「レストラン」とはいえ、実際には自宅のガレージに仮屋根だけつけてテーブルとイスを置いただけ。いかにもアウェトゥ・アントレプレナーらしい、「誰でも起業できる」ビジネスだ。
ただし彼女の場合、レストランは、事業の半分でしかないのかもしれない。案内してくれたのは、かつて彼女が子供だったころ、両親と6人きょうだいの計8人で暮らしていた、という小屋。とても人間8人が住んでいたとは思えない狭さだが、そのころを思い出して説明してくれるママ・リンディの姿は穏やかで楽しげだ。
アパルトヘイト前を含めて、当時の暮らしを体験してもらう場所にしたい、と開業したママ・リンディ。観光客が押し寄せるようになりたいね、と笑う。
■クリップタウンのShack
午後はやはりソウェトの中にある、クリップタウン Kliptown と呼ばれる地域へ。ここはソウェトの中でも最も経済水準が低く、失業率が高い地域であるとのこと。失業率は実に72%に達するという。
舗装されていないデコボコ道を進んだバスが止まると、そこには、「タウンシップ」という言葉からまさに連想される「貧困」の姿が目の前にあった。
こうした住居は Shack と呼ばれ、House とは区別される。日本語でいえば「掘っ立て小屋」というところか。電気も上下水道もなく、水は共同井戸に汲みにいくという。
ほんとうに、こうしたShackに今でも住んでいる人たちがいるのだ。しかも数十万、数百万人という単位で(Shackは南アフリカのどこでも目にする)。
政府はこうした問題に対応するため、ソウェトの一角に多数の家を新築し、無償提供するかわりに、その土地を明け渡させる、という政策を進めているという。
しかし実際には、出て行った元の家主の親戚が、郊外からやってきてもとのShackに住み着いてしまうことが多く、そうなると、Shackはいっこうになくならず、衛生状態も改善せず... いたちごっこが続いているのだ、と聞いた。
■子供たちのダンス、嵐と雹と雨漏り
クリップタウンでは、ユース・センター Youth Center の子供たちが、日頃から練習しているダンスを披露してくれた。6歳くらいから15歳くらいまで、お揃いのユニフォームに身を包み、男女別のチームで、太鼓のリズムとともに踊る。すごい熱気だ。狭いホールの低い天井に、彼らが踏み鳴らす足音が反響する。
ところが。その20分ほどのパフォーマンスの間に、ついに降り出した雷雨が、すぐに雹(ひょう)に変わった。午前中はあんなにきれいに晴れていたのに、雹は屋根をたたき、またたく間に地面にも積もって、雪のようだ。
そして、雨漏りが始まった(!)。天井の防水が不十分で、この滝のような雨に対応できないのだろう。ここは一部図書館も兼ねているのだが、貴重な蔵書が濡れては大変、と、雨が漏ってこない場所へ本を移動する。われわれも靴を脱いで、手伝う。
結局、マイクロバスに乗り込むまでのほんの30mほどの距離を、靴を脱いで裸足で歩いていくことになった。雹とはつまり氷なので、氷の上を素足で歩いていくことになるが、ヒー!冷たい!!なんとかバスに転がり込む。雷雨はまだ続いている。
しかし、われわれはいい。バスに逃げ込めばよいのだから。Shackの屋根の、防水がしっかりしているはずもない。きっと家財道具一式、すべてがびしょ濡れ、という一家も多いのだろう。肌寒く、暗い気持ちにならずにはいられない。
帰路にはヘクター・ピーターソン・ミュージアムに立ち寄った。1976年に発生したソウェト蜂起は、犠牲者176人の多くが中学生など子供だったこともあり、世界的な批判を呼び、アパルトヘイトが崩壊に至るその前触れだったとされている。その際に警官隊の発砲により死亡した中学生のひとりがヘクター・ピーターソンであり、その名を冠した博物館ができている。
が、また雷雨が追いかけてきて、またもやバスに駆け込むことに。今日は本当に、雷雨に振り回されっぱなしだ。
■そして、虹の国へ
ソウェトの困窮を際立たせて見せてくれた、このとてつもない雷雨は、しかし最後にいいものも見せてくれた。くっきりと、左の大地から右の大地まで、しかもダブルにかかる虹である。
南アフリカを「虹の国(Rainbow Nation)」と呼ぶことがある。もともとネルソン・マンデラ元大統領が演説の中で使った言葉であるが、多くの人種と文化を抱える南アフリカの融合と平和の象徴として使われる。
そういえば、われわれSAPチームもまた、8か国から集まったレインボーチームだ。
見たこともないくらいくっきりとした虹が、ヨハネスブルグの街をすっぽりと覆っていた。
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【参考リンク】
■ソウェト(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%88■ソウェト蜂起(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%88%E8%9C%82%E8%B5%B7