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ある時はコンピュータの製品企画担当者、またある時は?

お買い物USA

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日本に居ながらにしてアメリカのスーパーマーケットの買い物気分が味わえるところと言えば、Costco であることに異論をさしはさむ方はあまりいないのではないだろうか。東京近郊では、町田市多摩境や千葉県幕張などに店を構えている。妻の荷物係兼運転手として一度足を運んだことがあるのだが、近所の冷蔵庫代わりのスーパーとはスケールが違う。小さな子供なら乗ってしまえるような大きさのショッピング・カートで買い物をする、店そのものの作りもさることながら、商品の大きさが並ではない。

ピザは座布団サイズだし、マフィンは肉まん位の大きさのが1ダース・セットになっている。トイレット・ペーパーは3ダース、ロールパンも30個以上のが袋入り、コーヒー豆や肉類も1キロ超のが当たり前である。だから店に来ると陳列されている、というよりも無造作に在庫・山積みしてある商品に圧倒される。圧倒されること自体が楽しみで出かけているとも言える。控え目に買い物をしたとしても、通常一家庭で消費できる分量をはるかに超えるので、複数の世帯でやってきて、買い物後に売り場脇の休憩所で電卓を片手に「戦利品」を山分けする光景も珍しくないらしい。

近所のスーパーに買い物に出かけるのとは次元の異なるお買い物空間がそこにはあるように思えるのである。単に値段が安いとか高いとかとは違う(実際にはかなり安いように思う)、買い物自体が体験なのである。デパートが提供する体験空間も同じようなものかもしれないが、その非日常性はおそらく「質」にある。高級だったり、高価だったり、滅多に目にすることがない輸入品が目前に展開されることに興奮を覚えるのだろう。そして小市民はそこに付された値札を見て、ため息と共に商品を棚に戻すのである。それに対して、Costcoの非日常性は「量」にあると言える。売っている物はどこにでもあって、物珍しさは感じられないが、その量と形態が違うのである。トイレット・ペーパーやコーヒー豆は別にCostcoに出向かなくでも入手することは可能なものばかりである。そして、売値はデパートよりもまず安いので、庶民にも手が届く範囲にある。しかし最小の販売単位は、常軌を逸する程に大きいのである。こうやって「質」の追求と「量」の追求という具合に対比させてみると、Costcoはおそらく先駆者がいない市場を開拓してはいるが、生まれるべくして生まれたと言うことができそうだ。

何かの拍子に一世帯だけで買い物に出かけると、それはすなわち連日ほぼ同じものを食べ続けなければならないことを意味する。実は我が家では数日前から、朝食にロールパンと巨大マフィンを交互に食べ続ける日々がやって来た。僕はあまり抵抗がないのだが、ごはん好きの娘はそろそろ文句を言い出しそうな雰囲気である。

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