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ある時はコンピュータの製品企画担当者、またある時は?

ゆとりか、詰め込みか

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時々テレビや新聞などのメディアにおいて、学力談義を見かけることがある。大体そこでは、今の子供は昔に比べて学力が落ちたという仮説から出発して、その原因としてゆとり教育を槍玉に挙げる傾向にあるようだ。確かに小学校の教科書は僕らの頃のと比べて全体的にカラフルになって見やすくなった反面薄くなったし、土曜日は休みで授業時間が減ったし、台形の面積を求めないし、といった具合に突っつきたくなるネタは満載だ。また、親の立場にあれば、ゆとり教育に諸手を挙げて賛成する人はいないだろう。周囲の子供を差し置いてでも、自分の子供だけはまずは勉学に秀でていて欲しいと願うのが、普通の親のエゴなのではないだろうか。

でもゆとり教育の側からの反論ってあまり聞いたことがない。そもそも詰め込み教育の弊害を解決しようという旗印の下に始まった制度なんだから、今更のように世間で騒いでいることなんぞ、予めお見通しのはずだ。だったらあちこちに湧き上がっている非難に対して、その浅はかさを指摘する言論があっても良いと思うのだけど、何故静かなんだろう。「あれほど詰め込み教育を非難しておきながら今更何だ」、と開き直っているのかもしれないし、どうせ何をやっても非難されるんだったら、面倒なので放っておけ、と思っているかもしれない。非難する側も、詰め込みの弊害と言われていたことくらいは思い出しておく必要がありそうだ。

テレビドラマ原作としても使われた、「ドラゴン桜」という漫画には、「詰め込みこそ真の教育である」と豪語する堅物の数学教師が登場するのを思い出した。一見常識はずれな発言なのだけれど、結構皆が本音で思っていることそのものを言い当てているのではないだろうか。ゆとり教育を非難するには、詰め込みの弊害なんかへっちゃらで、ここまで言い切る覚悟も必要かもしれない。

実際に娘の学校の教科書と、進学教室で使う教材とを見比べてみると、その情報量には圧倒的な差があるのである。ゆとりと詰め込みの典型的な差がここにある。進学教室の教材には暗記するべき項目やら、解いておくべき計算問題の量が多いので、復習無しに先に進むことはありえない。放置しているととたんにわからなくなって、授業について行けなくなる。だから昆虫の完全変態と不完全変態の違いやら、日本の主要な山地・山脈やら、漢字の読み書きやらを、毎日ヒイヒイ言いながら勉強しているわけだ。そういった課題に毎日果敢に取り組むほどの精神力は小学生にはないので、親がお付き合いしなければならなくなる。少なくとも我が家ではそうである。

というわけで、結局我が家では詰め込み容認である。学力がどこまで伸びるのかなんて見当もつかないけれど、体力や精神力にかかる重圧を乗り越える訓練は、子供がこなすべき必須の要件だと思っている。そして適宜、重圧のさじ加減調整やガス抜きを行なうのが親の務めなのだろう。

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