「個人の時代」の意味
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「個人の時代」というキーワードをよく聞きます。
フェイスブックも、ツイッターも、個人と企業を区別しません。ドルチェ&ガッバナーのページも、一人の無名もページも、同じインターフェースで同じルールで行います。
中身が面白ければ、資本の大きさも軽々と飛び越えて、多くの人に発信することができます。
そういう意味で「個人の時代」とは、「個人が発信力をもった時代」という意味があるかと思います。
安藤美冬さんを講演でみて、「個人の時代」って、もう一つ違う見方があるのではないかと思いました。
安藤美冬さんはとても魅力的な女性だったのですが、特に印象的だったのは、自分の経験を語ることに対するものおじの無さでした。自分は未完成だと未熟だと言っているのに、ものおじする様子がないのです。本当にすごくないと思っていたら、ものおじするはずじゃないか?と、私は不思議に思ったのでした。
今まで、自分の経験を語っていたのは、本田宗一郎さんとか、井深大さんとか毎週のように新聞の一面をにぎわすような、いわゆる成功者の特権だったように思います。もちろん、安藤さんは活躍されているので普通の人ではないのですが、今はまだ毎週新聞の一面をにぎわす人というわけでもありません。
では、なぜものおじしないのか?
それは、個人レベルの経験に価値を見出す時代になったからじゃないかと思います。そして、安藤さんは、そういう事に価値があるということを肌感覚で感じているのではないかと思いました。
では、なぜ個人レベルの経験に価値があるのかというと、結局今までのセオリーが通用しなくなり、みんなが同じ働き方や生き方をして安定した生活を得ることができなくなったからだと思います。セオリーがないから、成功例が個人レベルしかまだない。だから、個人レベルの経験に価値が出てきたのではないでしょうか。
あと考えられるのは、個人レベルの経験を広く皆でシェアできるようになったのは、ソーシャルメディアがでてきてからです。それまでは、直接見聞きする経験や、マスメディアからしか情報を得られなかった。けれど、ソーシャルメディアで個人の経験をシェアするようになってから、リアリティある小さな経験にも価値があることが初めて分かってきた。そして、価値があるから、みんなも求め、語る側もものおじしない。こういう構造が出来ているのではないかと思います。
個人の時代=個人の経験に価値がある時代=個人がものおじしない時代
今のところ、私は、こういう意味じゃないかと理解しています。
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