レオナルド・ダヴィンチの転職力
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私はレオナルド・ダヴィンチが大好きです。
有名なダヴィンチ手稿を鏡文字で書いていたというエピソードを、小学生の時に知った時から興味を持ち始めました。鏡文字という暗号めいたところが、子供心にミステリアスに映ったのです。それから、大人になってミラノにレオナルド・ダヴィンチ博物館に行くほど、好きな歴史上人物のトップにダヴィンチは入ります。
そのダヴィンチをビジネスマン視点で見てみました。
まず、「ダヴィンチといえばモナリザ」なので、ダヴィンチを画家だと思っている方は多いのではないでしょうか?
私もそう思っていました。しかし、実際のところダヴィンチが生前に初めて名をあげたのは、画家の仕事ではなかったのです。
ダヴィンチは、13歳から16歳の頃にヴェロッキオ工房という大規模な工房で働き始めました。
当時、画家という職業は単独では成立しえず、単なる職人というポジションであったので、絵や彫刻、金工など何でも請け負う「何でも屋」でした。
おじいさんになってからの自画像からは想像つきませんが、若い時は相当の美少年だったダヴィンチはその工房で青春時代を過ごし、30歳まで働くのです。
そして、ダヴィンチが30歳の時に大きな転機が訪れます。
有名なシスティーナ礼拝堂の装飾のためにイタリア中から一流の画家が集められたのですが、ミケランジェロやボッティチェリが集められる中、ダヴィンチにはお声がかからなかったのです。
これに失望したダヴィンチは、ミラノの支配者に自分の推薦状を送って採用してもらうことになりました。以下、実際の自薦状の抜粋です。
レオナルド・ダ・ヴィンチの自薦状(1482年)
(1) 小生、きわめて軽く、頑丈で携帯容易な橋梁の計画を持っています。それによって敵を追撃することもできますれば、時には退却することもできます。…(7) 同じく、堅牢で攻撃不可能な覆蓋戦車を制作いたしましょう。それは砲兵をのせて敵軍の間に突入しますが、いかなる大軍といえどもこれに出あって壊滅せざるはありません。…(9) 大砲の使用が不可能なところでは、投石機、弩砲、弾石機その他在来の品とことなり、驚くべき効力のある器械を組立てるでしょう。
(杉浦明平訳『レオナルド=ダ=ヴィンチの手記』 下 岩波文庫)
ここで送った推薦状は、今で言う職務経歴書のようなものなのですが、驚くのは、アピールポイントとして挙げたものが、経験したことのない「大砲」や「戦車」などの技術的な話ばかりなのです。10代前半から30代半ばまで実績のある絵画については、一番最後に「絵画も描けます」という程度の記載でした。
これは、当時のイタリアは戦争をしていた時代だったので、絵画の能力よりも軍事の能力の方が採用してもらえる可能性が高いと踏んだためだろうと言われています。ちゃんと時代のニーズを汲み取っているあたり、優秀さが表れています。また、やったことのない軍事関係の仕事のアピールで採用までこぎつけてしまうのも、タダものではない様子が伺えますよね。
その後、モナリザや最後の晩餐を描いているので、ダヴィンチは画家の仕事をやめたわけではないのですが、画家だけでやっていく生活では全くなかったのでした。実際にミラノに移った後、ダヴィンチの名を広めたのは、なんと結婚式の演出だったようです。ウェディングプランナーや舞台演出のような仕事をしていたというのです。
当時は、政略結婚で政治を治めるのが盛んに行われていました。その際に結婚したことを世間に広めるために豪華な結婚式をするのことが多かったそうなのですが、そのプロデュースをダヴィンチは行っていたようです。画家だとばかり思っていた私は、こんな仕事をしていたことに驚きました。
ダヴィンチは、30歳でシスティーナ礼拝堂の装飾にお呼びがかからなかったタイミングで、ガラっと生き方を変えたのです。平均寿命が今より短い当時、「30歳」というのは今よりずっと年配者のポジションだったかと思います。そんな中、住んだことのない土地で、やったことのない仕事をゼロから始めたダヴィンチの転職力はすごいですよね。
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