思い出の宿る場所
以前、「ペットのクローンを作る(創る、とすべき?)企業が誕生した」というニュースがあったことをご存知ですか?当時かなり騒がれたので、ご存知の方も多いかもしれません。ところがこの会社(ジェネティック・セービングス・アンド・クローン社)、年内で廃業することを明らかにしたそうです:
■ クローン猫売れず、米ベンチャー企業が廃業 (CNN.co.jp)
ITmedia でも記事が出ていました:
■ クローン猫のGenetic Savingsが廃業 (ITmedia)
「商品」であるクローン・ペットが売れなかったために、やむなく事業から撤退するとのこと。CNNの記事によれば、「同じDNAを持っていたとしても、毛並みが同じにならず、不評だった」のだとか。
この記事を読んで、疑問に思ったことがありました。本当に「毛並みが同じでなかったから不評」だったのでしょうか?クローンで生き返らせるほど愛していたペットなのに、ちょっと毛並みが違うぐらいでけなせるものでしょうか。僕は子供のころ、1匹の黒猫を飼っていましたが、彼は最後に猫エイズに罹ってしまい、衰弱してすっかり毛並みも悪くなってしまいました。それでも家族みんなに愛されながら旅立っていったものです。それと一緒だとは言いませんが、多少毛並みが違ってもいいから、愛していたペットを生き返らせたいと感じる人もいたのではないかと思うのです。
ここから先は仮説でしかありませんが、ジェネティック・セービングス社の「製品」が受け入れられなかったのには、毛並みとは別の理由があるのではないでしょうか。お気に入りのぬいぐるみを無くしてしまった子供に、まったく同じぬいぐるみを買い与えることを想像してみて下さい。その子は新しいぬいぐるみに対して、同じ愛情をそそぐでしょうか?僕はその子供の立場に立ったことがありますが、同じ感情は抱けませんでした。まったく同じ姿・形だったにもかかわらず、その中に思い出は宿っていなかったのです。
もちろんこれは、個人的な例でしかありません。しかし、愛していたものに復活して欲しいと思うとき、それは姿や形といった「入れ物」ではなく、その中に入っているはずの「思い出」なのではないでしょうか。当然ながら、思い出は自分の頭の中にあるものであり、単に外見が同じだけのモノの中に込めることは簡単ではありません。ジェネティック・セービングス社の失敗は、「完璧なクローンを誕生させれば、それで顧客は満足するだろう」と考えたことにあったのではないでしょうか。
最近は心理学の面からマーケティングにアプローチするのが流行のようですが、文字通り人間の心理というものにもっと気を配っていれば、このような失敗を避けられる可能性もあったと思います(それはもしかしたら、最初から事業を立ち上げないという選択肢だったかもしれませんが)。クローン・ペットの例は極端な例ですが、私たちも「我々は完璧なモノを作った。さぁ愛情を注げ」という態度に陥らないように、十分注意しなければいけないのかもしれません。