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ある時はコンピュータの製品企画担当者、またある時は?

祭りの後に

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2週間近く続いた長いようで短かったオリンピックもようやく終わりで、見出しだけを見れば、一般紙もスポーツ紙もあまり変わらなかった日々もこれで一段落というところか。期待以上の成果を上げたと喝采を浴びたり、期待はずれと叩かれたり、やっている当人達は必死の思いなのだと思うが、何かのほんのちょっとしたきっかけで予期しない結果が生まれた時に、白黒正反対の評価を受けるのでは、やっている方も大変だろう。電車の吊り広告に踊っているタイトルなんかを見ていると、何だか気の毒にさえ思えてくることもある。無責任に騒がしい外野に向かって、そんなにごちゃごちゃ言うなら自分でやってみろと開き直ったという話もまず聞いたためしがない。さすがオリンピック選手ともなると、人間の出来が違うようだ。

マスコミ報道なんかを見ていて思うのだけれど、どうしてスポーツってこうも感情移入しやすいのだろう。やっている当事者でもその関係者でもないのに、見ていて興奮したとか涙が出たとかといったコメントが多く聞かれる。出身国が同じというただ一つの共通性ゆえに、親兄弟がプレーしているかのような錯覚にとらわれる。だからその共感の対象としては、他国の選手のファインプレーではなく、自国選手の姿であればなんでもよかったりする。バドミントンでどこかの強豪チームに勝つことよりも、本当は国内の政治・経済やガソリン1リットルの価格の方が、よほど身近で生活に影響するんじゃあないのかな、と思ったりするのである。

誰の目にも明らかな動かしがたい事実をもって、冷徹に現実を突きつけられるのが勝負の世界であって、それが国という運命共同体的意識の中に入り込んでくると、異次元の何かが弾けてしてしまうらしい。確かに政治や経済といった現実は、どちらかというと曖昧模糊とした世界だし、常にわかりにくさがつきまとう。逆に言うと、だからよいのかもしれない。「勝った」部分と「負けた」部分とが必ず混在していて、価値観の違いのために「勝負」の評価が人によってまちまちである。だから対峙した両者が同時に「勝利宣言」を行うことだって可能である。

ところがスポーツでは、国と国との間で誰の目にも明らかな「あちらが敗者でこちらが勝者」、という構図ができあがる。こうなると高邁な精神はどこかに飛んで行ってしまって、潜在意識としては戦争における勝者と同じであって、相手国に対する優越感まで生まれてしまうかもしれない。この勘違いとも麻薬のようなとも表現し得る高揚感が止められない、といったところか。ちなみに古代オリンピックに関する記述を探してみると、素手という以外にルールのない格闘技があったりして、行なわれていた競技は結構過酷なものもあったようだ。やっぱり戦争の代わりだったのだろう。当時の選手も命がけだな。

全競技が終わったので、これからしばらくは反省会のような記事が並ぶのだろう。選手達は命懸けとまではいかないまでも、背中に重いものを背負って戦ってきたのだから、結果は二の次という視点も大事であろう。時に見られる「戦犯」、などという言葉遣いはして欲しくないと思うのは僕だけだろうか。

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