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夏目房之介の「で?」

2022.6.19 日本マンガ学会 シンポジウム「マンガ原画のいまと未来」

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第一部「原画に託す」 倉田よしみ、竹宮恵子、バロン吉元、エ☆ミリー吉元、伊藤剛

第二部「原画を託す」 大石卓、ヤマダトモコ、イトウユウ、岡本正史、表智之

 例によってバロンさんの暴走ぶりと、見事な親子漫才でそれを制したエ☆ミリー吉元さん(バロンさんのマネジメント)が面白かった。竹宮恵子さんが返ってきた原画から編集部のつけた指定の薄紙をはがし、作家にとっての「純粋な原画」に近づけようとする発言をなさったのに対し、むしろ指定の文字があったり、傷があったり、あるいは編集部の原画を入れた紙袋に複数の作家名が次々消されているような情報が面白いし、そういうのこそ展示したいといわれていて、非常に興味深かった。アーカイブスでいえば、まさにそういう情報に多重的な資料性がある。

 「原画を託す」では、集英社漫画アートヘリテージプロデューサーの岡本正史さんの、作家と出版の間にある活版や写植、文字情報のローカルルール、集英社では2010年から原画をデジタルスキャンしたものにフォントを入れるようになって原画にフォントが載らなくなった経緯とか、マンガのカバーが実は蛍光ピンクなどを入れて5色だったりするという話が大変面白かった。ある種、マンガ制作過程の盲点だった。

 ただ、総じてマンガ原画のアーカイブについてみなさん「理想状態」を想定していて、「現存するすべてのマンガ原稿のアーカイブ」を求めているかのように聴こえた。そこで竹宮さん的な観点とエミリーさん的観点をすり合わせると、まず原稿に付随するあらゆる情報を可能な限り取り出し、純粋な原画に可能な限り近い複製を作成するかデジタルデータ化しておくことが理想になる。

 しかし、誰でもわかることだが、それは実際上不可能である。国が本気に出て来たところで無理である。けれど、歴史的に俯瞰して考えれば、すべての情報は必然的に消え去ってゆくし、じつのことろ我々はたまたま残った断片情報を再構成して歴史を構築しているのである。それを避けられないという客観的に視点から、ある種の限界を認めることもまた必要だろうし、それに沿って救済措置の境界線設定もまた必要になるように思われる。

 ところで、話題の中に「生原稿」「原稿」「原画」という言葉はいつ頃から使われ、それぞれどういう対象を指しているんだろうという疑問が出て来て、これもまた興味深かった。確かに言われてみれば、これらの言葉の経緯は全然わからない。誰か調べてくれないだろうか。

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