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夏目房之介の「で?」

国際マンガ家の困難 田村吉康さんと話して

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 少し前になりますが、田村さんとお会いして、学習院の講義でトークをしてもらいました。そのとき田村さんが、フランスの大手出版から原案者、脚本つきのマンガ化を依頼され、その作業工程で山ほどストレスを抱えている話を伺いました。彼はまずフランス側出版社の編集者に「ネーム」を送ってほしいと頼んだそうです。
 しかし、マンガ編集者とネームを介して相談し、内容を決定するのは、日本独特の作法だと思われます(「ネーム」という工程を言説化して一般化した責任の一端は僕にもあるかも)。ジャンプ出身の田村さんにはそれが当たり前でしょうが、世界的には通じない可能性が高い。むろんラフを介在させるシステムは、ジャンルや出版社などによってありえます。分業で別人がやる場合もあるでしょうし、原作者とラフを介して相談する場合もありえますが、編集者が強い権限をもってラフの段階から内容に介入するのは日本ぐらいだろうと思います(むろん例外はあるかもですが)。
 聞いたかぎり、おそらくフランス側は相当気を使っているはずですが、そうはいっても出版内部の文化差は大きい。たとえば、日本以外の国で仕事のメールの返信が何週間も、ヘタすりゃ何か月も来ないなんて、ふつうにありえます。でも、田村さんからすれば「すぐ返事をくれ」といったら、数時間内が常識なので、そりゃあストレスになる。
 こういうのは、何度か経験すると「当たり前」になりますが、ジャンプ的な制作システム、あるいは日本的な常識を基準にしたら、多分ストレスでやってられない。そのくらい特殊な世界にこれまでいたのだという、逆の立場からの客観視を、今回田村さんは少しできたようで、これからはその分だけ楽になる可能性はある。
 問題は、日本のマンガ家も編集者も、そのあたりの客観視がいまだできていないで、世界に自分のやり方を押し付ける可能性が高いことです。自分が悪いとは思わない。それが「ふつう」だから。でも、それは「ふつう」ではなかったりするんですね。
 そんな話をしていて、田村さんが平然と「たしかに僕はマンガって命をかけて描くものだと思ってました。実際、倒れた人や亡くなった人もいたし」といってのけたとき、僕はちょっと衝撃を受けました。そりゃあ国際的には通じるわけがない。もし、今でも日本のマンガ出版の世界にそんな倫理観、美意識があるのだとしたら、それは60年代までの戦後復興~高度成長期の競争的な価値観をそのまま化石化して現代に復活させている業界といわざるをえない。
 そこには、個人として豊かで楽しい人生を追求するという価値観の入りこむ余地がない。だから、目端のきいた人は同人誌で趣味として楽しむのだな、と妙に納得してしまった。もちろん、たった一つの例で全体を推断するわけにはいかない、ここで書いていることも検証性はないといっていい。けれども、そんな側面も実際ありそうに思えました。
 そもそも、日本のマンガやアニメの制作者は、企業でいう下請けと同じ産業の単位です。それも法に守られようのない、だからこそできるのだとじぶんたちで信じている特殊に古い世界です。多分、大手出版社の社員給与水準と中間層マンガ家の収入を比べれば、富の再分配構造の歪みの一端が見えるんじゃないかと思いますが、何しろデータがない。アニメはもっとひどいかもしれない。下層に富が再分配されず、企業の景気が社会の豊かさにつながらないのは、一般にこの国の構造だといわれますが、マンガやアニメはその最たる業界かもしれない。
 そうなると、田村さんのように世界に出てビジネスチャンスをつかもうとする人も出てくるでしょうし、僕個人も世界各地にそんな人達がいることを知っています。そういう人たちが情報交換して、自分達を客観視する機会があってもいいんじゃないか、という印象を今回持ちました。
 また、日本にきてマンガ家になりたいと思う外国人も、まだいるでしょうが、いずれは自国や他の国を選ぶ可能性もある。日本特殊論は、あまり強調すると弊害がありますが、かといって文化差、価値観やシステムの違いもまた厳然とある、ということは考えておくべきだろうと思います。

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