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夏目房之介の「で?」

二松学舎シンポジウムについて

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 二松学舎シンポジウム「誰が漱石を蘇らせる権利をもつのか? 偉人アンドロイド基本原則を考える」(2018年8月26日)について

 漱石の偶像化には賛成できない 夏目房之介

シンポジウム当日はまず平田オリザ氏作・演出の「アンドロイド演劇」『手紙』(女優の正岡子規とアンドロイドの漱石がロンドン滞在中の手紙についてやりとりする二人(?)劇)が上演され、その後アンドロイド製作者・石黒浩氏、二松学舎の山口直孝氏、島田泰子氏、谷島貫太氏のほか、福井健策氏(弁護士、著作権など)が発表し、最後に私も参加して討議を行った。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180827/k10011595211000.html?utm_int=nsearch_contents_search-items_001 2018年8月27日 NHK NEWS WEB「偉人のアンドロイド 「人格権」が課題に 基本原則を議論」参照

できるだけ要点だけを述べる。

 石黒氏は、「偉人アンドロイド」をどう定義すべきかについて、これを「意識」のある・なしという検証性のない議論ではなく、「社会的人格」において定義する。そこにやがて「人格」が想定される。とすれば、その「メッセージ性」は社会の共有する「社会的人格」漱石の「再現」である。そうなると、むしろ「本人」よりも教導的で「偉い存在」であることが求められる。アンドロイドはいわば「動く銅像」なのであって、その存在は社会に対してポジティブなものでなければならない、という主旨の発言をされた。レジュメがなかったので、メモをもとに記憶で発言を再現したので、誤解があるかもしれない。

 二松学舎の谷島氏は、アンドロイドに我々が「心」を錯覚することの不可避性から、「偉人のアイデンティティ・イメージ(パブリック・イメージ)」の「尊厳」「プライバシー」を尊重すべきだとし、「偉人アンドロイドの尊厳原則案」を提起した。たとえば、排泄、入浴などはさせてはならない。

 一方、福井健策氏は「偉人ロボット」を「再生ロボット」と言いなおしたうえで、そこに「権利」があるかを仮定的に論じ、製作の「自由」と著作権の関係、「肖像権」、ロボット自体による著作創作性の可能性(音楽自動制作ソフトなど、現状では権利者の確定が困難)について論じたうえで、「権利」問題よりも、「その行為に誰が責任を負うのか」が問題だとされた。最後に「偉人アンドロイド基本原則」を以下のように提起された。

① 利用可能なデータがあれば、死後にアンドロイドを作成公開することは自由。

② ただし、故人・遺族の名誉やプライバシー侵害に留意し「特に「行為や発言はフィクションであること」を明瞭に表示すべき」だとした。※下線は引用者

③ ロボット自体の著作権・隣接権は認めず、その創作した作品の利用も自由。

④ ①~③の原則は、「ロボットが独立の人格を持ちえた(その意味すること自体が検討対象)段階で、見直す」。

 討議の場では、基本原則を決めておこうとの石黒氏発言に対し、平田オリザ氏から「表現者としては最初から規制を設けるのはよくない、自由にやらせてほしい」との発言があった。

 以上の要約がどこまで正確かは、当日の映像再現を精査しないとわからないが、私自身はその場では、とくに反論めいた発言はせず、福井発言に刺激されて、面白がってしゃべっていた記憶がある。が、終了後、石黒・谷島側と平田側で対立軸があったことと、福井発表がそこをつなぐ立ち場たりえたことに気づいた。そして、私自身は福井氏の議論がもっとも理解できる妥当なものだと感じた。

 「偉人アンドロイド」は「パロディであると思う」というのは、じつは控室での私の発言だが、討議のさいにも言及している。私にとって、現状のアンドロイドが「偉人・アンドロイド」である時点で、そこに成立する「人格」は、あくまで「社会」(受容者)が共有し想像・創造する「人格(のようなもの)」である。現状、それが人間と同等の人格的存在であるという検証が不確定なものでしかないのは、疑いえない。なぜなら、史実の「漱石」「夏目金之助」という個人の「再現性」は、いかにしても言説の束による歴史社会的な、そのつどの「解釈」であって、そこに単一の「真実」は想定できない。また、してはいけない、というのが、現在の研究レベルでの妥当な考え方だと思われる[註]。

 もし、そこに「真実」を想定してしまうと、「漱石」はかつて実在した「人間」「一個人」のあやしさ、ダメさ、ダークな側面を失い、「偉人」という聖人君子的な理想化を求められる。いいかえると、文学者漱石としても、個人金之助としても、最も重要なもの、そこに存在した者が現在からみたときに生じる「多義性」(解釈の自由な広がり)を失う可能性があると思われるのである。

 

 「漱石」の理想的な「銅像」化は、漱石のもたらす思想・文化の重要な価値である「多義性」を押しつぶす可能性がある、というのが、私の違和感であった。石黒氏らの議論が直接そうであるというより、その議論の仕方、方向性には、「理想」的な「人格」の再現という危険性が潜在しているといったほうがいいだろう。

 私の「漱石アンドロイド」=「パロディ」説は、福井氏のいう「フィクションであること」を明確にすることと合致する。そもそも「パロディ」は、「オリジナル」が存在し、自身はオリジナルではないことを受容者が自明視することをもって、はじめて「面白い」のである。私が「マツコロイド」の「面白さ」に感動し、このプロジェクトに一も二もなく賛同したのは、まさにそうした面白さ故だった。基本原則を仮定的に議論すること自体は刺激的であるが、この点ははっきり発表しておきたいと思って、この記事を書いた。

 漱石は、かつて文部省が勝手に送りつけてきた博士号を拒否して送り返したさい、こう書いている。

 「小生は今日までただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、これから先もやはりただの夏目なにがしで暮したい希望を持っております。」明治44年 三好行雄編『漱石書簡集』岩波文庫 p.241)

 この調子からみて、夏目金之助は「銅像化」、教導的な「理想化」も拒否するように思う。もっとも、これとて一遺族の想像に過ぎないのだが。

[註]その「古典」的不動性の連想とは逆に、「漱石」のイメージは歴史的、社会的に変容してきている。佐藤泉「教科書のなかの「漱石」像(1)(2)」『漱石 片付かない〈近代〉』NHKライブラリー 2002年、夏目房之介「夏目漱石というイメージ」 フェリス女学院大学日本文学国際会議実行委員会編『世界文学としての夏目漱石』岩波書店 2017年 など参照

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