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夏目房之介の「で?」

桜井画門『亜人』(1~9巻 2013~16年)

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三浦追儺原作(2巻以降原作表記なし)・桜井画門漫画『亜人』(講談社 1~9巻 2013~16年連載)
 TVの深夜アニメを偶然何回か観て、案外面白いなと思った。何よりも、ラスボス的な悪役「佐藤」の意図的な「地味さ」が面白くて、かつ「亜人」の設定に何か凡百のこのテの作品とは少しばかり異なるポイントがありそうな予感がした。で、原作を買い込んだ。じつは何巻かすでにお試しで読んでいたのだが、そのままほおっておいたのである。
 原作はかなり考え込まれた感じで、「亜人」という概念もまだ未知の部分が多すぎ、そういう意味では本当の意図も今のところ不明といってもいい。が、ひとつだけ今の時点で面白いと思っている点をあげれば、8巻で出てくる「亜人」という思考実験の場面だ。亜人は不死身で、死んでも生き返るというゾンビや吸血鬼の新しいメタファのひとつなのだが、死んで再生しても、その人間の同一性を保証する自意識=記憶は保存される。そのため亜人排除制圧側(政府)は、亜人を殺し続けることで捕獲しようとしたり、強力な睡眠薬を打ち込んだりする。ここで対政府テロを行う快楽殺人主義的な人物「佐藤」は、その裏をかき、今のところ常に勝利を続けている。彼は、たとえば全身を粉微塵に砕いてまで、目的の建築内に再生したりする。一方その寸前、彼と敵対する少年の亜人主人公は、仲間に対してこういう。
 「断頭には気をつけろ」
 その理由は「魂だのなんだの信じない前提で話を進め」れば、亜人は復活のさい、離れすぎた部位(たとえば手)は回収せず、それとは別の手を勝手に再生する。これは頭部も同じだ。しかし、よく考えれば、そのとき破壊された頭部そのものは、ただ捨てられて死ぬ。あらたに再生した頭部は、たしかに記憶も自意識も受け継いでいるが、
 「離れた頭部から意識が抜け出し新しい頭部に移るわけじゃない」
 「あたらしい中野(仲間の名)は生きているが」「お前(=中野)自身は永眠している」
 つまり、今ここで「生きている」自分(という自意識)は消滅する=死ぬ、といっているのだ。この仮説に恐怖や不安を持つとは、一体どういことなのか。再生したじぶんが、再生以前の記憶を持つにもかかわらず、一度その人物の実存は「死ぬ」のだ、という認識なのである。これはゾンビ的な思考実験の面白いポイントのひとつかもしれない、と思う。
 でも、まだ十分に展開はされていない。むしろ、そんな実存的問題なんて屁のつっぱりにもならないとばかりに突き進む悪役「佐藤」の凄さ、ある種の爽快さが際立って、それが面白さになっている。なので、今後こういう問題が出てくるかどうかも未知数である。おまけに、一読しただけではわかりにくい描き方になっているのをみると、ひょっとして作者自身あまり詰めて考えているわけではないかもしれない。ただ、そういうことに気づきつつ、作品が進んでいるということも事実なので、今後に期待したいのだ。
 もうひとつ、亜人は人により異なるIBM(あるいは幽霊)とよばれる、亜人にのみ見える巨大で強力な怪物を生みだすことができる。これまでのマンガ・アニメ史の中でみても、おそらくこの設定が非常に興味深くて重要かもしれないのだが、まだ本当の姿は見えてこない。まあ、そんなに難しいことを考えずとも面白い作品ではあるけどね。

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