笹本純「描かれた顔における「向き」の類型性」
来週のゼミでグルンステン『線が顔になるとき』をとりあげ、聴講生の原さんが発表し、討議をするんですが、聴講生・瀬川さんの提案でテーマに関係のある論文や本をそれぞれ読んできて議論を持ち寄る、という試みをします。
で、僕は以前読んだ筑波大の笹本純さんの「顔の向き」類型に関する論文(「描かれた顔における「向き」の類型性」筑波大学芸術系研究報告 第31輯 97年)を思い出し、読み返してみたんですが、これ、非常に面白くで刺激的で重要な論文だと思います。97年発表のもので、当時も読んで面白かったんですが、直接活かせる機会があまりなかった。
笹本さんは、まず歌麿の美人画とボッティチェリ「春」の顔をあげ、絵画の顔描写にはあらゆる角度から現実の立体としての顔を再現できる「現実再現性」の高い絵(ビューをもつ視点の平面への投影)と、少数の向きしか持たない類型的で記号的な絵があると指摘。その様相を、顔の「向き」角度を測定する方式を使って、江戸期にほぼ西欧型のビュー感覚をもった渡辺崋山の肖像画を比較。さらに、そうして得られた記号的な「向き」の絵、つまり「美人」なら「美人」というカテゴリーを概念として表現する絵の可能性に言及し、滝田ゆうや西岸良平を引いてマンガの顔の「向き」の意味を問うていく。
結論的には、記号的な絵は、けして現実再現性の高い絵より劣位なわけではなく、コミュニケーションのための「意味」を豊かに生成するものである(現実再現性の高いビューの絵は原理的には「意味」を含まない)ということになります。
この論文は、マンガの絵というものがもつ特性と、絵を理解したり受け取るときの近代芸術の枠組を対照させて、もともと人間がもっている自然な絵の「意味」を問うているもので、基礎研究的なところでとても重要だと思いました。笹本さんには、マンガの「内語」を分析した重要な論文(「マンガの語りにおける視点とその決定因 としての内語」 記号学研究16 日本記号学会編 1996) もあり、こちらはベルントさんの『マン美研』にも転載されているので、まだ参照される機会がありますが、ほかにも重要な仕事をされているんです。・・・・ということをお知らせしたくて、要約的に紹介してみました。