花園大07後期集中講義レジュメ4
12月26日
午前
4)マンガ表現の突出
60年代マンガ表現の変容例としての林静一
林静一『赤色エレジー』 東映アニメーション、幻冬舎 07年?
本編上映 26分
70~71年「ガロ」に連載したマンガ作品を、現代のCGアニメとして再構成
昼食
林静一『赤色エレジー』 「月刊ガロ」70年3月号~71年1月号連載
テキスト 小学館文庫『赤色エレジー』00年
連載誌 「ガロ」 ざらついた紙と印刷の手触り感 雑誌の厚さ
『赤色エレジー』図版紹介 アニメ版との異同など(幸子の違い
A)同棲マンガとしての『赤色エレジー』
若者文化の風俗的先端表現
幸子像
図11 林静一『赤色エレジー』小学館文庫 00年 168p 幸子全身
図12 同上 92p パジャマ姿 日本の女の子のリアルな姿態の可愛さ
(→のちの独特な美人画家・林静一へ)
図13 同上 88p 電気コンロに手をかざして一人待つ幸子
ほとんどマツゲしか印象に残らない、マンガ的表情要素を抑制した顔
〈ただぼんやり歩くパジャマ姿の幸子の瞳のないまつげ、やや猫背の背、こぶりで形のいい胸。それはマンガ的なオンナの類型記号である胸ではなかった。どこにでもありそうで、そこにしかない姿態のかわいさ[図3]。こういう描写で林にかなう者はいなかった。
あるいは、何度も何度も描かれる煎餅布団の上で苦しげにのたうつ一郎の、幸子の、または二人の姿態[図4]。わずか数コマの画像が訴える、やり場のない男と女の苦しさ。
活劇から脱したマンガが、日常的な描写を完成し、そこに豊かな喩の画像を組み込んでゆく、ひとつの原型がそこにあった。〉夏目房之介『あの頃マンガは思春期だった』ちくま文庫 00年 180p
初の(?)同棲マンガのリアリティ
図14 同上 140p 図15 同上 166p 図16 231p
やたらと(一つしかない)フトンで(色んな意味で)悶える二人
●恋愛、結婚、仕事、将来の希望など、かつてマンガが描くべき主題ではなかった「青年期の懊悩」を描く手法を開発 前史に永島慎二など
B)マンガ表現の先端性
手塚、白土など、寓話的な構成から、意味と画像の関係を解体した表現主義的な傾向へ
図17 同上 18~19p 白雪姫と結婚
図18 51p 内面の対話の画像化
図19 220p 心理的な「殺意」の画像化
飛躍の多いシュールな画像の連続、独特の暗喩、高度なリテラシーの必要
「自己表現」としてのマンガの追求 → マンガの方法論意識 → 前衛化・純粋化「マンガをマンガとしてとらえる」こと
● つげ義春に始まる「ガロ」の表現革新は、佐々木マキ、林静一によって一種の確信犯的「運動」の印象を与え、当時のマンガ青年の賛否両論を呼んだ。
● いわば「革命的」であるかどうか、「前衛的」であるかどうかの試金石のような位置を占めた
● 同時にそれは「マンガ」を純粋にマンガとしてとらえ、語るジャンル意識を伴う →マンガの外延から「マンガとは何か」に答える →夏目・大学時代の「佐々木マキ論」→「コマ・絵」=マンガ表現論の仮説(70年代初期→のち、表現論として整理)
C)言葉と画像の演出
詩的な表現
簡潔な言葉の重ねで、事態のリアリティを感じさせる リテラシイの必要
図20 同上 177p 「違う!」 「知ってる・・・・」 「もういいの・・・・」
図21 188~193p 6p20コマ中セリフ吹きだし5つ 前後を削った言葉
路上で聴こえてきた会話のような「らしさ」
当時の風俗的、都会的リアル → つげ義春、宮谷一彦の「風景」
● 「言葉」をいかに解体し、かつビビッドに表現するか?
同時期の佐々木マキの表現
図22 佐々木マキ 『素浪人錯乱』 ガロ 70年1月号 138~139p
セリフの吹きだしのみ 言葉の不在
図23 同上『軽気劇 砂漠の目玉』 同上 8月号 150~151p
セリフはあっても意味不明 裸の口蓋のくしゃみ=かすかなニュアンスの連想
● 言葉への不信→先行世代への不信+反近代主義 「ぼくらのマンガ」世代の刻印? 当時の思想状況の反映
● 「言葉よりも絵」の意識(一種の純粋化?) 少女マンガとの差
休憩