『ジパング』通読
かわぐちかいじ『ジパング』を一気読みした。
連載から数年は単行本で出るたびに読んでいて、その後飛び飛びで読んではいたが、これまでの三分の一弱は読み損ねてたかもしれない。今回、『ジパング』本の取材イタンビューのために一巻から通して読み、現在連載中のものもコピーを送ってもらったので、ほぼ遺漏なく読んだことになるのかな。
もちろん、面白かったし、興味尽きない作品なんだが、印象でいうと菊地が叛乱に成功したあたりから求心力が落ちた気がする。もともと『沈黙の艦隊』での海江田とライバルの対照が、草加と角松だった。前者では完全に海江田中心の物語になってしまったのに比べ、『ジパング』では両者の拮抗がいいバランスで進んできていた。
が、『沈黙』では限定された設定の中で外に追いやっていたような要素、外交的な、あるいは歴史的な複合要素を引き込んでいるために、複雑な人物配置にならざるをえなかったのだと思う。海軍・陸軍の対立項に山本五十六・米内光政・石原完爾を置き、彼らと「みらい」との間に草加以外の架空人物を複数配置し、さらに米英の指導者のほかインド独立のボースや毛沢東まで物語に配置していったために、草加・角松対立とその投射としての菊地・角松関係がぼやけているのかもしれない。
要するに、いくつかの世界を合わせ技で組み合わせないと全体の「危機」やスリルが見えず、かわぐちマンガの手法である「主題を人物に置き換えてセリフで語る」手法だと、いってみれば主人公がそのつど違う複数の人物に拡散してしまって『沈黙』にあったような求心力が拡散しているのかもしれない。
とはいえ、この作品はタイムスリップ物の歴史シュミレーション機能と「原爆」を巡る攻防などマンガ的なハッタリの面白さを活かした、優れた娯楽作品である。それに歴史好きの僕としては、むしろそれゆえに色んな歴史の側面が、意外なところで出会うシュミレーションの面白さを味わえることにもなる。山田風太郎の明治物や『「坊っちゃん」の時代』の面白さと同じだ。
いずれせよ、物語はおそらく最終局面にさしかかっているので、期待したい。
ところで、『ジパング』22,23巻末に「かわぐちかいじインタビュー 日本人とは何なのか」がある。このインタビューで、かわぐちはかなり率直に作品について語っており、興味深かった。まず『沈黙』と『ジパング』については、こんなふうに語っている。
〈『沈黙の艦隊』は、これから国家をどうしていくのかという大ぶりのテーマになってしまったので、今連載中の『ジパング』『太陽の黙示録』では、それをもう少し詰めていきたい。『沈黙の艦隊』からずっと流れているものを違った視点で、「日本人って何なんだろう」というところを密度を高めて描いてみよう、と思ったんです。〉(『ジパング』22巻 講談社 06年 182p)
たしかに、タイムスリップによって生じた角松と草加の対立は、たんに敗戦後の日本国と戦争中の大日本帝国の対立ではない。同じ「現在」にいる設定の二つの祖国の対立であり、そこには「同じ日本人とは思えない日本人同士」の必然的な対立が浮かび上がる。敗戦と米占領に規定された「ねじれ」を持ちつつも、あきらかに(僕らにとっては)戦争中の日本国家よりはるかにマシな戦後日本と、しかし戦後日本が失ってしまったかもしれない要素を仮定された戦時中の日本の対立であり、そこでは今僕らのいる戦後日本こそ「架空」でしかないので、角松は次第に「専守防衛」的自衛隊の帰属意識を失い、それが存在した自分の「未来」がすでに違うものになるだろうと理解するにしたがい、理念化した「日本」を想定せざるをえなくなる。この事情は、草加も逆方向から同様で、そこでそれぞれに否定すべき日本、肯定すべき日本が分裂し、問われることとなる。
ただ、かわぐちは「国家」を問うとはいわず「日本人」を問うといっているので、ここで描かれるのは「よりどころとすべき、ありうべき国家」を求める「日本人」とは何か(その共同的な枠組は何か)ということになるだろうか。
こういう興味は、世代的に近い僕には、かなりよく理解できる。かわぐちは、デビュー以来「劇画」を描き続けた70年代、幕末~昭和のテロリズムを描き、すでに国家と理想と日本人という主題は胚胎していた。僕のような読者からすると、成熟して時をおいて帰ってきたように見える。おそらく、かわぐちにとってこの主題は必然的にたどりついたものだ。
けれど、やはり世代的に理解できるなぁと思うのは、彼がそれをメッセージではなくて、あくまでも面白い娯楽作品として描いているのだと主張しているところだ。
〈テーマも大切ですが、僕がマンガを描くときには、ワクワクする面白みがある設定を最初に考えるんです。ああこれは面白いなという発想が先で、テーマに沿ってマンガを組み立てていくわけではないんです。〉(同上)
プロパガンダに堕すことへの本能的といってもいい忌避は、僕にも強くある。60~70年代の、白土三平的な図式から林静一や佐々木マキなどの表現への推移は、その背後に旧左翼的なプロパガンダ表現=寓意からの逸脱、表現の自立性への移行があったと思う。また、戦争に対するスタンスも、今から思えば後続世代よりはるかにリアリティをもって戦争体験に日常的に接していた世代でもある。60年代前半までの日本には、じっさい敗戦国としての刻印がリアルにあったし、それが失われてゆく過程が高度成長から70年代の安定成長期だった。
かわぐちかいじが、60年代末の「黒い劇画」的な「小さな目」を捨ててゆくのは80年代だが、その「大きな目」には娯楽としての求心力や「明るさ」が象徴されている。魅力的な人物に世界を仮託する彼の方法の「わかりやすさ」は、青年マンガに「国家」を語らせる可能性をもたらした。けれど、そのことの危うさに自覚的だったのも、かわぐち自身だった。このあたりに、同世代の優れたバランス感覚を感じる。
小林よしのりとの違いについて、かわぐちはこう答えている。
〈小林よしのりさんとの違いについていえば、小林さんの場合は日本人の正当性を評価したいというメッセージをマンガに込めていますよね。[略]日本人の再評価ですよね。それはそれでいいと思いますが、小林さんと僕とでは何を好んで描くかということ自体違います。僕のマンガはあそこまでストレートなメッセージにはなりません。〉(同上 90p)
それは「日本人」に対して〈ダメだなと思う面と誇りに思う面がいつも自分の中で相克している〉(同上)からで、それが日本人の描き方の差になっているのだ、と。これは、すでに『沈黙』でもはっきりと表出していた「戦後世代の米国への深い愛憎」のジレンマと、ちょうど対偶的にあるもので、戦後の『ねじれ」そのものといってもいい。日本の敗戦と戦後に対する、自分が生まれ育った当の場所に対する否定と肯定のジレンマは、ひょっとしたら世界戦争としての第二次大戦後の敗戦国に共通する課題なんだろうか。
明日の取材の前に少し感想をまとめておこうかなと思って書き出したら、何だか本格的に書かないといけないような方向にいってるので、このへんでやめる(笑)。でも、いつかかわぐちさんのことは、書いてみたいなという気持ちはあるな。やっぱり、信頼のおける自分に忠実な作家だと思うんだよね。