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夏目房之介の「で?」

「近代」って何だろう?

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・・・・というようなことを、ずっと考えてきてたとこがある。最初は多分、高校のときに倫理社会という授業で「明治維新」について調べて発表せよといわれ、うっかり古本で経済学系の概説書を買ってしまったことがきっかけ。「資本の原蓄積」とか「自由な労働者の産出」とか、経済学的な推移は何となくわかったけど、何でそんなことが極東の島国に可能だったのか、一体誰がそれをやったのかが、全然わからず巨大な「?」になって残った。けれど、色々読んでみたところで、そもそも明治維新時にはルソーすら訳されておらず、指導原理らしきものも、経済理論もロクになかったはずで、かといって日本の幕末が、たまたま、もう自然に近代経済になるほどになってたとは思えなかった(ここんとこは、昔から議論のマトで、じつは江戸時代は経済学的には近代だったという考え方もあるようだけど)。

結局のところ「近代とは何か」っていう考え方、枠組の作り方で、ここのところのとらえ方は変わるってことと、どのみち欧米資本主義や近代思想の成立を基礎に考えられた枠組では限界があり、かといってとりあえず他にモノサシもなし・・・・という解決不能な問題の周辺を堂々巡りするしかなかった。
大学時代に、中国の近代学生~大衆運動であった五四運動を卒論で考えたときも、その後個人的に「明治維新とアジア主義」を考えてたときも、同様の主題をさまざまに変奏してきた。
近代国民国家というものが曲りなりに成立し、大正昭和期のモダニズムや開放的な文化は近代社会の大衆社会化の結果で、この過程に規定されてファシズム化と敗戦後の日本がある。ということは、近代化を担った知識人・漱石の問題も、中間階層としての父や母の過ごしてきた時代社会も、戦後大衆としての僕の人生も、その中で相互に規定されているんである。
手塚治虫を考えたときにも、彼の文化的背景として日本の大衆社会化と小林一三の宝塚、父親のモダニズムなどが見えたとき、自分の家系と同様の問題系列を感じ取った。水木しげるの近代と戦後、他の階層から見た近代とマンガなど、マンガの歴史もまた近代史の主題に含まれる。
また、現在のマンガの世界化現象において、東アジアへの浸透と地域化の問題も、資本主義と近代国家としての発展度合(市民社会、大衆消費社会化の度合)を背景に考えていかないといけないし、そのためには一定の世界観が必要なんである。

さて、そうやって考えると、つまるところ「近代」は、かつて学生時代に考えたように(マルクス主義など近代批判思想の世界観のように)国家がすべての矛盾の本質で、それを打倒解体すれば展望は開けるって問題なんだろうか、って話が、どこかでぶり返したりする。でも、どう考えても、近代と近代社会(国家)は、同時に「それ以前の時代社会よりも、より多くの富を産出し、紆余曲折しつつより多くの人々に富を分配し、その結果、宗教にも階層にもかかわらない「人間」全体の概念にとっての福祉を課題とし始めた時代とシステム」であることは疑いえないのだった。
したがって、近代と近代社会を全体として批判し否定する思想というのは、どうしても半分の「ほんとう」しか感じさせず、何よりも現実的に可能なベターな選択を引き寄せることができないか、その邪魔をすることになるんじゃないかと、ずっと感じてきたのだった。
ポストモダン系の思想に、どうしても「話半分」の信頼しか置けないのはナゼだろうと自分でも思ってきたのだけど、言葉がわかんない(あるいは、そのカッコつけかたが嫌いで信用できない)ことの背景に、やっぱり「倫理の源泉をどう考えるのか」とか「結局、ある種万能のイデオロギー批判って側面は危ういじゃないか」とか、「近代」の評価を巡る問題があるように思うのだった。

だから、どうしたって話じゃないんだけど、そんな昔からの問題意識の中で、最近ようやく竹田青嗣『人間的自由の条件 ヘーゲルとポストモダン思想』(講談社 04年)を読了したんである。ただし、そこでの議論は僕の知識不足、読解力欠如により、ほとんと理解できない。ただ、上で書いたような問題について、ある方向で答えようとしていることだけが、わかるだけだ。倫理とか善悪の問題を正面から取り扱おうともしている。
まだ、この本について何か書けるレベルではないので、こんな文章になってしまったのだった。とりあえず、今回はここまで。

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