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【書評】『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』:長幼の序

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著者: 開沼博
青土社 / 単行本 / 412ページ / 2011-06-16
ISBN/EAN: 9784791766109

「長幼の序」という言葉が、一気に流行語である。国と地方の関係には一定の秩序があり、地方は年長者のように国を敬わなければならないという関係性が、はからずも映像を通して明るみになったことによるものだ。

この件に限らず、今回の震災は、東北地方に被災地が多いこともあり、「中央と地方」という点にフォーカスがあたりやすい。原発の問題についても同様だ。「上と下」、「主と従」というような関係性の中、はたしてどのように原発は形成されてきたのか?本書は福島県の原子力をテーマに、「中央と地方」の関係から考察した一冊である。

◆本書の目次
第Ⅰ部 前提

序章  原子力ムラを考える前提
第一章 原子力ムラに接近する方法

第Ⅱ部 分析

第二章 原子力ムラの現在
第三章 原子力ムラの前史
第四章 原子力ムラの成立

第Ⅲ部 考察

第五章 戦後成長はいかに達成されたのか
第六章 戦後成長が必要としたもの
終章  結論
補章  福島からフクシマへ

本書の著者は、一言で言えば”持っている”。福島県いわき市で生まれ育ち、2006年から福島原発の研究を始め、まだ大学院生だ。結果的に本書は、おそらく3.11以前の福島原発に書かれた最後の学術論文によるものであるだろう。震災後に書き始めたのでは間に合うことのない圧倒的な取材量が、絶対的なリアリティを生み出している。そして、「中央と地方」という視点で本書を書き終えた直後に、今回の復興相によるオフレコ発言である。これを”持っている”と言わずして、何と言うべきか。

一般的には、「中央と地方」という二項対立で片づけられやすい問題である。つまり、中央の事情により、地方が屈服し原発を立てざるを得なかったという構図に落とし込むことが、最もたやすい。しかし、そこに「原子力ムラ」という概念を設定し、中央、地方、原子力ムラの三者間の関係性で分析しているところが、本書のユニークな点である。一口に地方とはいえ、決して一枚岩ではないということだ。

本書で明らかにされている地方の服従の様相は、非常に複雑なものである。それは、ムラもまた、原子力を欲していたという事実なのだ。背景にあるのは、成長の中で露呈してくる農業という産業の衰退、深まる出稼ぎ、若者の流出と過疎、高齢化、そしてムラの文化の崩壊。そのような状況の中、いつの日か原発への推進/反対というコードは、愛郷/非愛郷いうコードへ転換する。愛郷を貫くための物や金という物理的条件の前には、原発への賛否は大きな意味を持たなくなってしまうのである。

このような社会的なテーマへ考察する際のアプローチには、マクロアプローチ、メゾアプローチ、ミクロアプローチといくつかあるそうなのだが、本書の場合は、ミクロアプローチだ。著者は、フィールドワークや地域調査に基づく「虫の目」で、徹底的に地方に密着している。それでいて決して地方と同化することのない、芯の強さを持っているのが印象的だ。

また、もう一点興味深いのが、メディアとしての原子力という視点である。国とムラの双方が互いに原子力を通じて共鳴していたもの、それはともに原子力に大きな夢を見ていたということである。国の夢は世界有数の原子力技術の確立、自国内での資源確保、ムラの夢は子や孫のための愛郷の実現。つまり、原子力は、国とムラの双方にとって、近代の先端を描きだすコミュニケーションのメディアとして機能してきたということなのだ。

国とムラとの幻想は消え、もはや勝者はいない。そして、この問題はフクシマに限らないのだ。八ッ場ダム、沖縄、六ヶ所村や巻町の問題・・・ 

我々が見つめなければならないのは、新たな幻想ではない。リアリティなのだ。

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