【書評】『知覚の正体』:新しい目
「発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。新しい目をもつことなのだ。」マルセル・プルーストの、かくも有名な名言である。この言葉に、本書の主題でもある「知覚」の本質が潜んでいる。
一般的に視覚機能と言う時、それは光を感じる感覚器でおこる出来事と、中枢で処理するプロセスの両方をさす。上記の例に当てはめると、いくら新しい景色を感覚器で受け止めようとも、中枢の処理が追いついてこなければ、新しい視覚情報は得られないということなのである。
本書はこのように「見る」、「聴く」、「触る」、「嗅ぐ」、「味わう」といった知覚について、抹消の感覚器官と中枢の統合機能との関係に着目することにより、その複雑なメカニズムを解き明かしている。著者は日本人で、主に眼球運動の専門家。この類のテーマについて書かれた本は何冊も読んできたが、日本人によって書かれているのは珍しく、素直に嬉しい。おかげで取り上げられる事例や題材も、和をテーマにしたものがてんこ盛りである。
◆本書の目次
1 知覚は環境抜きで成立するのか
2 重力は生物の知覚と行動を支配する
3 遠い記憶と新しい知覚
4 とぎすまされた職人の知覚
5 ブラインド・スポットと伝統芸能の奇妙な関係
6 ひと筋縄ではゆかない美醜の知覚
7 奥行きを知覚しているという確信はどこから来るのか
8 動く目で動くものを見ると
例えば、職人の代表格でもある大工の世界。年に2回、檜の角材からどれだけ薄い削り華を排出できるか競いあうコンテストがある。このコンテスト、削り華の厚さが数マイクロメートル(μm)の水準で勝敗が決するという。ここでポイントとなるのが、鉋の刃を研ぐ作業である。鉋の刃には数マイクロメートルほどの微細な欠けや乱れがあってはならない。この顕微鏡の世界を、職人は指先で触れて、刃の出具合を確認するのである。驚くべき皮膚感覚の弁別力である。このような能力は、人間であれば誰にでも備わっており、長い時間をかけた経験の集積の結果としてもたらされるそうだ。
一方で、知覚には創造を補完するという機能もある。日本の芸術として知られる茶道や華道、これらには「わび」、「さび」を第一義とする道具や所作がある。その特徴は、極限までの省略による簡素な佇まい。省略された空間は、物理的な刺激の特性としては何も情報が送られてこない。しかし、生体では状況が異なる。何もない刺激に対して、中枢は何らかの意味を持たせようとする。過去の経験などから、創作や創造が働き出す余地が生まれてくるのだ。
さらに、知覚情報がどのように美醜と結び付くのかという解説も、興味深い。一般的に左右対称なものは、美しいとされている。しかし、歌舞伎の睨み、不動明王の憤怒の形相といった左右非対称なものにも、人は美を感じることがある。一見不完全に見える配列や構成を、高次中枢が能動的に解釈するために費やされる力強いエネルギーが、心地良さをもたらすこともあるのだ。中枢とは、どこまでも気まぐれなものである。
本書を読んだ後には、日本というものが、新しい知覚によって認識されるかもしれない。それはきっと、新しい目で日本を見るということでもある。
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