【書評】『ご先祖様はどちら様』:みんな誰かの末裔
そんなに頻繁に顔を出しているわけでもないが、親戚同士の集まりが大嫌いである。ましてや墓参りなど、その極致である。人生で数えられるくらいしか会ったことのない、姿形の似た人たちが、よってたかって何度も何度も同じことを聞いてくる。「興味がないなら、聞かなきゃいいのに」と思いながら、どうやってその場を抜け出すかを思案する。夏の風物詩だ。
本書はそんな自分にとって最も苦手なテーマ、「先祖様」について書かれた一冊。驚くことに、著者自身の先祖を辿るという個人的な記録である。この赤の他人の先祖を辿る話が、不思議なくらいに面白い。なにしろ、そのきっかけからして変わっている。結婚披露宴で出会った同業の先輩から「なんてったって、お前は最後のジョウモンだからな」と、突然縄文人呼ばわりされる。そして、「縄文人について知りたければ、三内丸山遺跡で佇め」と言われるところから、著者の先祖を巡る「佇みの旅路」が始まる。
◆本書の目次
序章 俺たち縄文人
第一章 ご近所の古代
第二章 爆発する家系図
第三章 もやもやする神様
第四章 ご先祖様はどちら様?
第五章 多すぎる「高橋」
第六章 たぎる血潮
第七章 家紋のお導き
第八章 とても遠い親戚
第九章 天皇家への道
終章 またね、元気でね
他人の家系を辿る記録に、なぜここまで引き込まれるか?それは著者の軽妙洒脱な語り口によるところも大きいが、自分自身が同じことを行っても、大なり小なり同じような結論が出るだろうと思えるからである。著者は市役所へ行き、父方の家系図を入手し、戸籍を辿り、神話を探り、本籍地まで赴くのだが、その先は杳としてわからない。今度は母方を辿り、本籍地へ赴き、墓地へ行き、家紋を探るのだが、源氏だか平氏だかも漠としてくる。
その飄々とした旅路の中で、時折見せる著者の視点が秀逸である。
考えてみれば、戸籍に登場する先祖たちも私にとっては子供のイメージだった。出生を調べたのだから子供を想像するのは当然なのだが、先祖が子供だと時間軸が反転してしまう。私が彼らの末裔というより、彼らが私の末裔のような気がしてくるのである。
お互いが混とんとしているから、つながっていないとも言い切れないのである。逆に言うなら、家系がわかるということは、つながりを限定してしまうこと、家系がわからないからこそ、「つながっているかもしれない」というつながり感覚は広がっていくのである。
この独特な視点の提示により、著者の家系を巡る旅路の追体験が、まるで自分のことのように思えてくる。読了後には、心地よい疲労感すら感じる。家系の歴史を紐解くということは、偉人達の歴史の中に、自分自身をプロットするということである。つまり、歴史を客体として見るのではなく、妄想しながらも主体として見る。ここに、大きな意味があるのだ。
家系という、最も身近な歴史に目を向けること。それは人生観や歴史観を変えるような大きな出来事につながるかもしれない。今度の墓参りは今までより、いささか楽しくなりそうである。
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