上手すぎないほうが良いものが出来る
近衛秀麿(このえひでまろ)は1898年生まれの指揮者です。
貴族の家に生まれ、異母兄は元首相の近衛文麿です。
指揮を山田耕筰に師事しました。
今、日本経済新聞で連載されている「日本指揮者列伝2」に、近衛秀麿が取り上げられていました。
近衛秀麿の指揮の特徴として下記のように記されていました。
・・・・(以下引用)・・・・
『フルトメンクラウ』と渾名された独特の動きから紡ぎだされる響きは格調高く、音楽の喜びに溢れていた。かつての録音や映像が発掘されつつあるいま、近衛の再評価が望まれる
・・・・(以上引用)・・・・
この「フルトメンクラウ」は、ドイツの名指揮者フルトヴェングラーをもじっているのでしょう。
確かに、フルトヴェングラーも、何を振っているのかよくわからないような指揮ぶりでした。
小澤征爾さんなどが桐朋学園で基礎として学んだ「斎藤指揮法」では、オーケストラのアンサンブルがスパっと一糸乱れず合いやすいよう合理的に作られたメソッドで、この方法さえ学べば、どこに行っても通用します。
しかし、そういうメソッドとは正反対の指揮法がフルトヴェングラーの指揮法でした。
アンテナのように指揮棒をブルブルさせて、まるで天から霊感が降ってくるように指揮棒を振り下ろします。
だから、オーケストラはどこで出ていいのかわからない。
どこから出ていいのかわからないので、ア・ウンの呼吸と勘で全員が合わせようとする。
そうすると、「う・・・う〜ん!」というような、微妙で奥深く、有機的な音がするのです。
もしフルトヴェングラーが、現代の指揮者コンクールを受けたなら、確実に一次予選で落とされるでしょう。
これが、指揮の技術が良すぎると、スパっと合うのは良いのですが、行き過ぎると無機質な音になってしまうこともあるのです。
近衛秀麿さんの指揮は、多分、このフルトヴェングラーのような有機的な指揮法であったのではないかと想像します。
わかりにくいからこそ、良い音が生まれるということがよくあるのです。
ただ、これは「ヘタウマ」の世界であって、単なる「ヘタ」ではダメです。
これはビジネスの世界でも似たようなことがあるような気がしています。
合理的マネージメントより、意外とサーバント的な経営方法のほうが、良いものが作れたりすることが多いのではないかと感じています。