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 セールスジャパンの経営を始め、様々な事業活動に携わるマイク丹治が、日々仕事を通じて感じていることをつづります。国際舞台での活動も多いので、日本の政治・社会・産業の課題などについて、グローバルな視点から、コメントしていきたいと考えています。

もっと世の中は簡単にならないか?

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連休開始。アベノミクスで気が良くなっているので、結構明るい話題が多く、行楽の話が次々と報道されている。まあ、とりあえずは良い話と受け止めよう。

円安のおかげで、イカ釣り舟が一斉休業という情報が出ていたが、産業構造が高度成長の時と全く変化しているのに、このことを認識せず、輸出産業支援とばかりに大量の金融緩和をしたのだから、これは致し方ないこと。今後放っておいても物価は上がるだろうし、当座は国民の生活は苦しくなる。更に加えて、圧倒的に高い負債比率のわが国におけるこの金融緩和がどういう結果をもたらすかは、様々なシナリオを描きながら、注視して行って欲しい

さて、今週のエコノミストに、Gavin NewsomとCass Sunsteinの著書が紹介されていた。どちらも米国民主党のもっとも知性にあふれる人間という説明であり、そのタイトルは前者がCitizenville、後者がSimplerだそうである。

詳細は分からないが、前者の言っていることは、民間分野はこの10年で大きく変化したが、行政部門も同じように変化する必要がある。その変化とは、行政が相変わらず供給者サイドの論理に基づきトップダウンであるのに対して、民間はボトムアップでネットワーク型になったということのようだ。

このような変化は、ある意味でインターネットの普及などによる部分が大きいとは思われるが、もうひとつ所謂民度の向上、従来から言われている価値観の多様化の更なる進行、創造性を生かしたい市民の増加なども原因となっていると思われる。

大事なことは、政治家たちがこのような議論をきっちりやろうとしているその態度だ。米国に限らず、わが国を含めて先進国における議会制民主主義はその限界を露呈しているのであり、これに代わる仕組みが必要になる可能性は高い。

しかし、政治の仕組みというのは、基本的にその中枢にいる人々、つまり国民の代表ということになっている国会議員の手によってしか変革できない。従って、社会の変化をきちんと理解し、これを踏まえて政治システムをどうすればよいかというのを、まさに選良として考える人々がいることが、今の議会制民主主義の重要な要件になる。

これが多少なりとも機能している米国に対して、経済の実態すら理解できない政治と、自らの衰退すら認識できない大手企業の経営者というわが国の将来は極めて悲観的に見ざるを得ない。

この提言に従えば、多分これまでの一握りの政治家と、その周辺にいる異様に優秀な官僚がすべてをオブラートに包みながら決めていくこれまでのやり方から、より国民が直接かかわっている仕組みへと変えていく、その中で行政の在り方もプラットフォーム型、つまり国民同士がサービスを提供し合う形に変わっていくということになるのかもしれない。

行政サービスそのものがこのようになるのはまだ時期尚早だとしても、少なくとも政策の議論などはこれまでの政党の公約と現実の行政、議会の広報と情報公開という流れから大きく変化していく必要があり、これは私が所属している構想日本でもオープンガバメントという形で提言をしてきている。

事業仕分けもあくまでその一環で、大事なことは国民の生活に関わる行政、国民の税負担で成り立っている行政が、何を目的に何をしているのか、ということが主権者である国民に透明に示されることであり、そしてそれに対して当事者でない第三者が質問を発しこれに答えると言う形でチェックが行われるとともに、この過程自体も公開されることだと考える。

そして、このように国民が様々な政策形成過程や、その議論の過程に関わるようになればなるほど、もう一つの最初に述べたSimplerが重要になってくる。これはどの国でも同じだと思うが、行政の仕組みは、大原則を法律で決め、その実際の運用方法を政令や省令で決め、更に実務において詳細な手続きが決まっている。

そして、これは一方で行政の平等性を確保し、行政の手続きを厳格にすることで恣意性を排し、コストを引き下げ、またその政策でサービスを受けられない国民に対して配意し、特殊なケースに配意し、などなどあらゆる考え得る要請にすべて応えようという精神に基づき、政治家や官僚が全力を挙げて取り組んでいる証しでもある。

ただ、それが故に個々の制度や政策は益々複雑さを増し、かなり知的レベルが高い人間でも二度や三度の説明では理解できないようなものになってしまっている。このような事態だとすれば、せっかくオープンガバメントが進んだとしても、結果として議論すべき、判断すべき第三者や国民には理解できないのだから、意味ない議論がなされたり、議論が成り立たないという事態が起きる可能性にもつながる。

その意味では、そろそろあまり細かいことを制度などで決めるよりも、大原則だけを明確にして、例外はその都度対応するというある意味でいい加減なやり方も試行して見ても良いのではないか一番重要なことは、何が目的で、それに対して何をどういう限度でサービス提供するかであって、あとは実際の事例を出来る限り公開することで、国民のチェックに委ねる、そんな形もあっても良いかもしれない。もちろんそのためには地に落ちたわが国の国民の民度を引き上げることも条件になるが。

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