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 セールスジャパンの経営を始め、様々な事業活動に携わるマイク丹治が、日々仕事を通じて感じていることをつづります。国際舞台での活動も多いので、日本の政治・社会・産業の課題などについて、グローバルな視点から、コメントしていきたいと考えています。

国民主権の意味

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前回の衆議院議員選挙に関する違憲、無効判決が議論になっている。しかし、事の本質から外れた報道が多く、改めてマスコミの質の低さが目立つ気がする。

あるテレビ番組で、弁護士の方が「格差がどの程度認められるか」という問題ではなく、国民の一人ひとりが持つ主権の問題なのだ、とその意味を明確にしておられた一方で、キャスターがその議論に全く関心を示さずに、無効になるとどうなるか、という現象面に議論を振っていたのには、さすがにがっかりした。

マスコミの論調は、無効判決の意義に触れるものもあるが、やはり無効になるとどうなるか、司法として介入し過ぎではないか、政治の停滞を惹起することになるのが良いのか、そして何が合憲かの明確な指針を示さないのは無責任ではないか、というものが多い。

だが、一票の格差の議論は、今に始まったことではなく、多くの最高裁判決の歴史がある。その中で、立法府の専権に関わる事項として司法判断を避けるところから始まって、あまりの格差のひどさに方向性を示し、合理的期間内の改正を促すようになり、更に衆議院と参議院の制度が近いものになるに従って、一人別枠も違憲と指摘するまでになってきた。まずは、この司法のこれまでの努力とその背景にある論理をきちんと整理し理解すべきだ

そのような歴史と、司法のギリギリの工夫の中で、現状の制度は明確に違憲状態だとした中で、前政権時にこの問題自体が政局を動かす道具として用いられ、結果として解消しないまま選挙が行われたことに対する司法の判断だと考えれば、介入し過ぎとか、政治の停滞の問題などを問う以前の問題であることは明白だと考える。

わが国は民主主義の国家であり、その礎は国民の主権である。その国民の主権の重さに違いがあるとすれば、わが国は民主主義、国民主権とは言えないのではないか、というのが、これらの判決の示唆する方向だ。

諸外国の例を見ても、一票の格差をほぼ認めない運営をしている国もある。もちろん人口は移動するので、全く格差なしというのが現実的かどうかということはあるが、一票の格差なしにすると、都市部の意見が強く生かされ過ぎるという反論には、ちょっと待て!と言いたい。では、地方の国民の方が都市部の国民より主権が強いということを国民の総意とするのかと?

地方の格差の問題は、例えば衆議院を完全に格差なしにして、逆に参議院を都道府県代表にするとか、様々な方法で解決が出来るのではないか?まず、今我々国民が改めて認識すべきことは、この国の主権は我々にあり、それをまずは立法府たる国会にどう反映させるかということではないか?その意味で、国民とかい離した政治家たちが跳梁跋扈する現実を変えていくために一歩を踏み出すべきではないか?

政治の現実を踏まえ、一定期間の猶予を認める将来効を導入した無効判決の考え方に私は賛意を表したい

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