仕事は厳しいものというのは時代遅れ?
明日もドタバタなので、早めに一筆。今週のお題で、就職活動について一言。時々知人のお子さんの就職の手伝いを頼まれることもあるし、自分の子供たちの就職で心配することもある。ただ、どうも皆さん自分がやりたいことや自分の能力に固執しているような気がする。
もちろん自由主義社会のわが国だから、少しでも自分の能力を生かせる仕事をしたいのは分かるし、自分の理想を求める気持ちも理解できる。ただ、まだ若い身で本当に自分のことが理解出来ているのか、本当に自分のやりたいことが決まっているのか、というとちょっと疑問だ。
これは、世の中の大人たち、例えば政治家や経営者も、きちんとそのあるべき姿を見せていないからではないかと感じる。福島の原発で核分裂の話があった。大したものではない、臨界でもなかった、と言って不明確な報道がされているが、これで本当に良いのか?
政治が国民の生活を守るべきものだとすれば、もっときちんとした情報を開示し、最悪の事態も示した上で、判断を示すべきではないか?原発周辺地域についても、当然居住者の方々は戻りたいだろうが、本当に大丈夫なのか?現実に何が発生しているかも分からないのに、避難区域を変更するなどということは、正しいことなのだろうか?
何も大騒ぎすることが目的ではないが、仮に10年後、20年後何かあったときに、きっと政府は当時の考えられる選択肢では最良の判断をしたので、仕方ないと言うに違いない。でも、そもそもリークしていることすら分かっていて何もしていなかったという事実一つとっても、政府の判断が正当だったとは言えないと思う。そして、このようないい加減な対応が、国民のそして若者の人生観に影響を与えているのではないか?
閑話休題。考えてみれば、私も最初就職したときは、世の中のことなど全く分からず、面接官の質問に適当に答えていた記憶がある。元々銀行嫌いの父親から、「絶対銀行へは行くな」と言われていたのを、面接官の印象で銀行に決めたが、その時は海外勤務がないというのが、当時の家族の前提だった。結局その後米国に派遣されて、その時には大喜びだったのだが。
入社後最初に店舗に配属された時は、年は若いが大先輩の方々からいろいろと指示を受け、これに従って一日湿式コピーやシュレッダーなどに向かっていた。伝票計算、あて名書きなど何でも人より早く出来るように頑張った記憶がある。
もちろん、何か大きな仕事をしたいというような気持ちはあったが、具体的に人生で何を実現したいとか、自分はこれが得意だなどという明確なものは持っていなかった。今は、インターネットを含めて情報が大量にあるので、我々のころとは違うとは思うが、やはり自分の将来や特性というのは、20代前半で確立するものでも分かるものでもないと考える。
当然オリジナリティや自分の意見は大事だが、その前にまず社会人としての基本を身につけること、そして自分の可能性を広げるためにも、どんなことでも一生懸命取り組むことが必要だと感じる。
その意味で、例えば英語が得意でないから、これに触れないで行きたいとか、研修期間中の仕事がきついから向いていないとかいうのは、ちょっとどうかと思う。それから、私も結果として随分転職をしたので、あまりきれいな履歴書ではないが、少なくとも社会人最初の仕事は数年は貫徹すべきだと考える。個々の仕事は単なる作業かもしれないが、継続的に経験することで、その位置づけなども分かってくる、それが次につながると思うのだ。
おじさんの、「今の若い者は!」的な内容で恐縮だし、もはや就社時代ではないというのも事実だと思う。しかし、仕事をしてお金を頂戴するということは、自分の仕事を通じて誰かにサービスや付加価値を提供しているわけで、それが満足いただけて、給料を頂戴するに値する、ということは決して簡単なことではないと思う。