言葉を覚えられたなら、ユニークな発想もできる
「ものは言いよう」をむずかしく言うとこうなる。
科学哲学者は帰納法を「破廉恥なもの」と呼んでいるが、それはある一連の観察結果と矛盾しない一般化は数限りなくあり、そのなかからどれを選ぶかを決める、厳密に論理的な基盤はないからだという。
― スティーブン ピンカー 『思考する言語〈上〉―「ことばの意味」から人間性に迫る』(日本放送出版協会、2009年)
続けて、子どもが言葉を覚えるとは、いわば帰納法の問題を解くことなのだというくだりがあります。
子どもは、大人の会話を聞きながら(観察結果を増やしながら)言葉の使い方を覚える(文法への一般化を行う)。たしかに、人間の推論エンジンは、まず言語の習得によって鍛えられるのだなあ……というところでハッと来ました。
子どもは、ときどきユニークな言葉の使い方をします。「うちの子は詩人だ」と思った親は僕だけではないでしょう。でもあれは、子どもが非論理的だからでも、創造性にすぐれているからでもないと思います。というのは、そういう言葉の使い方をした理由を聞いてみると、実にその子なりの理屈があるんですよね。
推論エンジンはちゃんと動いている。しかし(1)インプット(観察結果)も少ないし、(2)一般化された結果としての「言葉の使い方」を大人と共有していないし、(3)推論の結果を表現する語彙も少ない。そのせいで、妙なことになる。
ということはですよ、われわれ大人もユニークな発想をしようと思ったら、発想の仕方そのものを変える必要はないわけです。ごく当たり前の推論エンジンを働かせればよい。ただし、当該分野の(1)事例を調べず、(2)「定石」「フレームワーク」も覚えず、もちろん(3)専門用語も覚えずに、考えたことをただただ撒き散らす。知らなかった事実によって否定される発想も多々あるでしょうが、そこは質より量で勝負。「一連の観察結果と矛盾しない」、新しい一般化への未知を切り開けるかもしれません。
とはいえ、実は(4)恥ずかしがらずにアウトプットする、という第4の条件があって、これがわれわれ大人には難しい。