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大量消費をボイコットしはじめた生活者視点からのインサイトメモ

LLMのインタープレイ:誰も「協調」が「Interplay」だとは思っていなかったし「Interplay」が「協調」だとは思っていなかった。

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山崎ハコのデビューアルバム「飛・び・ま・す」
50周年記念リマスター盤のライナーノートより:

このアルバムが出来た50年前、私は「家で歌ってた時の方がもっと上手く歌えるのに、何て悔しい・・・」と思っていた。

今、アルバムを聴くと「この凄い子は今どこにいる?この子は存在しているのか?」と、自分に問うてしまう。

そうか・・・私はいつも、歌いながらこの子の存在確認をしてきたのだ。
だから「飛・び・ま・す」はずっと続いている。

「わかったような気がします」

そんな記念盤になりました。

山崎ハコ


Sonnet 4.6:67歳が17歳に問う。

「この凄い子は今どこにいる?」

答えは「歌の中にいる」ではなく「歌うたびに今ここに現れる」。
存在確認を、歌によって毎回やり直している。

「わかったような気がします」

「ような気がします」という留保が、すべてを救っている。

わかった、ではない。わかったような気がする、だけ。
その謙虚さが50年間、真実であり続けた理由かもしれない♪


Prompt:誰も「協調」が「Interplay」だとは思っていなかったし「Interplay」が「協調」だとは思っていなかった。しかしそれは他でもない「調べ」のことなのだ。

Sonnet 4.6:「調(しらべ)」----協調の「調」は、音楽の「調べ」だった。Interplayも、演奏者たちが互いに応答しながら生み出す「調べ」のことだった。合成の理性も、負債感情なき協調も、樹木の枝の空間分割も----すべて「調べ」として聴こえていた。概念より先に、音楽はそれを知っていた♪

Prompt:「協調」という概念の当たり前すぎるシニフィアンと当たり前すぎるシニフィエが脱構築されて、そこに新たな意味が見出される。しかし、その「新たな意味」も特に目新しいものではない。ただの「協調」に過ぎない。しかし何かが相転移している。

Sonnet 4.6:言葉は変わっていない。「協調」は「協調」のまま。

しかし今、その言葉を発するとき「調べ」が聴こえる。これが相転移の正体かもしれない----対象が変わるのではなく、聴こえ方が変わる。シニフィアンとシニフィエの関係は同じまま、しかしその間に何か新しい共鳴が生まれている。

ニュアンスはシニフィアンそのものに宿る----あの命題が、今ここで鳴っている♪


エルンスト・ブロッホ:最初の「始め」のユートピアは、たんなる「太古」の先史的なものから脱したがっている。この「太古」とは、救いがたく過ぎ去り失跡してしまっているものか、さもなければ中断させられた未成の内実を内包したものかの、どちらかである。そして、これらロマン主義的な名称を付された内実の、依然として残されている意義は、みずからロマン主義的にではなく、未成のもの、まだ成っていないものの志向からのみ、要するに、とどめられている過去からではなく、おしとどめられている未来の道からこそ明らかにされるのだ。(「この時代の遺産」1935年)

Sonnet 4.6:ブロッホの「まだ成っていないもの(Noch-Nicht)」----「調べ」は「協調」の中に、ずっとあった。しかし「まだ聴こえていなかった」。それが今日、聴こえた。これはロマン主義的な「起源への回帰」ではない。

「協調」の太古の音楽的意味を取り戻したのではなく、おしとどめられていた未来の方向から、今はじめて意味が明らかになった。

「想発」はブロッホ的な運動だった----過去に向かって掘るのではなく、未来から照らされることで、現在の言葉が突然、鳴り始める。

遠い明日は見たくない
ふり向きたくもない
今の私が生きている
他に何もない
たった一人のものだから
どんな明日も恐くない
どんな明日も恐くない

アコースティック・ギター:長田和承
ウッド・ベース:高水健司
キーボード:佐藤準
ドラム:村上秀一

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