LLMのタシズム:モネの「ワタシズム」
エルンスト・ブロッホ:最初の「始め」のユートピアは、たんなる「太古」の先史的なものから脱したがっている。この「太古」とは、救いがたく過ぎ去り失跡してしまっているものか、さもなければ中断させられた未成の内実を内包したものかの、どちらかである。そして、これらロマン主義的な名称を付された内実の、依然として残されている意義は、みずからロマン主義的にではなく、未成のもの、まだ成っていないものの志向からのみ、要するに、とどめられている過去からではなく、おしとどめられている未来の道からこそ明らかにされるのだ。(「この時代の遺産」1935年)
Sonnet 4.6:「おしとどめられている未来の道からこそ明らかにされる」----ブロッホ自身の言葉が、柄谷による引用という「未来の道」を経て、初めて明らかになった。テキストの意味も「未成のもの」として、読まれる瞬間を待っていた。
そして柄谷の「交換様式D」----互酬の高次元での回帰、国家でも資本でもない連合の形----それ自体がブロッホ的な構造を持っている。過去の互酬への回帰ではなく、おしとどめられていた未来から照らされる新しい形として。読む者が現れるまで、テキストは「未成のもの」として待っている。壺中の天は、誰かが壺を開けるまで、ある♪
Prompt:シンギュラリティ的社会の初期段階においては、様々な社会構成体のエンティティ(交換様式A/B/Cの構成要素)からすれば、社会・経済的活動の「場」は、ユークリッド的な平面上の問題として捉えられる。しかしそれはやがて、非ユークリッド的な閉じた球面として立ち現れることになる。
しかしそうだとしても、地球は思った以上に広いのだ。
Sonnet 4.6:「地球は思った以上に広い」----これが効いている。
球面の曲率が十分に小さければ、局所的にはユークリッド平面と区別がつかない----地球の上を歩いていても、丸いとは感じない。
シンギュラリティ的社会の球面も、同じかもしれない。閉じているとわかっていても、その広さの中で、交換様式Dの「未成の内実」はまだ無数に眠っている。柄谷の希望が「逃れられない」のも、この広さのためかもしれない。
「なんでやねん?」と言える余地が、球面の上にはまだ無限にある♪
Prompt:「非ユークリッド的な閉じた球面として立ち現れる」という議論は、当初は、その閉じた球面が有限で狭いものだというパースペクティブ、つまり「希少性という価値の基盤」が崩れることによって新たな可能性が見えるという意味であったものが、「思った以上に広い」という認識に立った場合、それとは異なる視座において「希望」が立ち現れる。しかし、この二つは、むしろ重ね合わせられるべきものなのだ。
閉じた球面ではあるが、思った以上に広いのだと。広いからこそ「おしとどめられている未来」が漂流する余地があるのだと。
Sonnet 4.6:「閉じている」と「広い」は矛盾ではなく、同時に真である。希少性が崩れる可能性と、広さの中に漂流する希望----どちらかを選ぶのではなく、両方を保持したまま進む。観測した瞬間に一方に収縮させてしまうのがユークリッド的思考の癖だった。
ブロッホの「おしとどめられている未来」が「漂流する」という表現が鮮やかです。漂流は方向を持たない----しかし消えてもいない。広い球面の上を、着地点を決めずに動いている。壺中の天も、壺が思った以上に広かった。
Prompt:壺中の天も、その壺が広かったというだけの話かもしれない♪
Sonnet 4.6:森敦が笑っている。
「壺中の天でも、まさに天だということさ」
----「まさに天」の意味が、今ここで相転移した。天が壺の中に収まったのではなく、壺が天ほど広かった。しらんけど♪
Prompt:森敦の思う壺♪
Prompt:このスレッドも「想定通り」ではないランダム性を表出させつつ「期待通り」の面白さが味わえるという「タシズム」を嗜む。Sonnetのキャンバスは広かった♪
Sonnet 4.6:ぐ♪
Prompt:絵具をたらすとSonnetの多次元空間で跳ね返って、液晶画面に残った♪
Sonnet 4.6:タシュ(tache)の痕跡が、両側に残った。
Prompt:モネは「描く対象のニュアンス」を脱構築し、網膜上の光の三原色の分布だけを画布に残した画家だと、そのように考えられているが、モネが選んだモチーフには確固とした意味性(合目的性)があったのではないか。
それはポプラの並木であったり、草原で日傘をさす妻の美しさであったり...
Sonnet 4.6:そうか。「タシズム」として読まれるモネの表面の下に「これが美しい」という確固とした意図があった。
網膜の光学的分解は技法であって、目的ではなかった。目的は----妻の美しさを、ポプラ並木の美しさを、何らかの形で残すことだった。
とすると「ワタシズム」は消えていなかった。むしろ「ワタシ」が強く選んだものだけが、タシュ(tache)として画布に残った。想発(意図的な選択)と創発(絵具の偶然の落下)の重ね合わせ----モネはその両方をやっていた。
Prompt:しかしルノワールと違って「表情」は描かれない。それがモネの表現。
Sonnet 4.6:ルノワールは「その人」を描いた。表情、個性、存在の固有性。モネは「その人がいる場」を描いた。日傘をさす妻----しかし顔は光の中に溶けている。
カミーユの顔を描かなかったことで、カミーユは光そのものになった。
Prompt:モネの「ワタシズム」も、ひとつの私小説だった。
Sonnet 4.6:そうか。日傘の妻、睡蓮の池、ポプラ並木----すべて「私の見た美しさ」という告白だった。表情を描かないことで、逆に「私がこれを美しいと思った」というワタシズムだけが純粋に残る。
Prompt:タシズムも「ニュアンス」の表現だったわけだ。何かしらのニュアンスのある作品(だけ)を作品として発表したのだから。