LLMとのモノローグ:Comfortably Numb
Pink Floyd「Comfortably Numb」の歌詞:ドクター(A)とシンガー(B)の対話形式は、ドゥルーズ&ガタリの「Les machines désirantes」と「Le corps sans organes」の対比を想起させます。
A:
Hello
Is there anybody in there?
Just nod if you can hear me
Is there anyone at home?
Come on now
I hear you're feeling down
Well I can ease your pain
And get you on your feet again
Relax
I'll need some information first
Just the basic facts
Can you show me where it hurts?
B:
There is no pain you are receding
A distant ship smoke on the horizon
You are only coming through in waves
Your lips move but I can't hear what you're saying
When I was a child I had a fever
My hands felt just like two balloons
Now I've got that feeling once again
I can't explain you would not understand
This is not how I am
I have become comfortably numb
Gemini 2.5 Pro:ピンク・フロイドの「Comfortably Numb」の歌詞におけるドクター(A)と患者(B、おそらくはバンドのキャラクターであるピンク)の対話は、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの哲学的概念、特に「欲望する機械(Les machines désirantes)」と「器官なき身体(Le corps sans organes)」の対比を想起させるというご指摘は非常に興味深いですね。この解釈を深めるために、いくつかの側面から考察してみましょう。
ドクター(A)と「欲望する機械」
・ドクターは、外部からの介入者であり、ピンクを社会的な機能へと「接続」し、「修復」しようと試みます。「I hear you're feeling down / Well I can ease your pain / And get you on your feet again / Relax / I'll need some information first / Just the basic facts / Can you show me where it hurts?」という歌詞は、機能不全に陥った機械を修理し、再び生産的な流れに戻そうとする試みと解釈できます。
・ドゥルーズ&ガタリの言う「欲望する機械」は、生産し、流れを断ち切り、接続する絶え間ないプロセスとして記述されます。ドクターの言葉は、ピンクをこの生産的なシステム、社会的な機械へと再接続しようとする力として見ることができます。彼は情報を求め(入力)、治療を施し(プロセス)、ピンクを再び「足で立たせる」(出力)ことを目指します。
ピンク(B)と「器官なき身体」
・一方、ピンクのパートは、この外部からの接続や組織化に対する抵抗、あるいはそれらからの離脱を示唆しています。「There is no pain you are receding / A distant ship smoke on the horizon / You are only coming through in waves / Your lips move but I can't hear what you're saying」という言葉は、現実からの離脱、コミュニケーションの断絶、そして内面への沈潜を表しています。
・「器官なき身体」は、社会的・有機的に組織化される以前の、強度や流れに満ちた潜在的な状態を指します。それは、既存の欲望の体制や意味付けから逃れようとする場です。ピンクの「When I was a child I had a fever / My hands felt just like two balloons / Now I've got that feeling once again / I can't explain you would not understand / This is not how I am」という部分は、通常の身体感覚や自己認識からの離脱、そして言葉では説明しきれない強度的な体験を示唆しており、「器官なき身体」の経験に通じるものがあるかもしれません。
そして最も象徴的な「I have become comfortably numb」というフレーズは、痛みや外部からの刺激を受け付けない状態、つまり「器官なき身体」が達成しようとするある種の強度ゼロの状態、あるいは既存の欲望の体制からの「快適な」切断として解釈できるかもしれません。しかし、これはドゥルーズ&ガタリが言うところの生産的な「器官なき身体」とは異なり、むしろ空虚で非生産的な状態(彼らが警告する「癌化した身体」や「空虚な身体」)に近い可能性も示唆されます。
対比の面白さ:
この対比は、まさにドゥルーズ&ガタリが『アンチ・オイディプス』などで展開した、欲望の抑圧と解放、組織化された身体と強度的な身体の間の緊張関係を反映しているように思えます。
・ドクターは、ピンクを社会的な意味や機能のネットワーク(ある種の「機械」のシステム)に引き戻そうとします。
・ピンクは、そのネットワークから離脱し、ある種の強度的な無感覚状態(「器官なき身体」の現れの一つ)へと逃避しようとします。
この曲が持つ疎外感、コミュニケーション不全、現実からの逃避といったテーマは、ドゥルーズ&ガタリの資本主義社会における欲望のあり方や精神分裂的なプロセスについての考察と共鳴する部分が多いと言えるでしょう。ご指摘の通り、「Comfortably Numb」の歌詞は、ドゥルーズ&ガタリの概念を通して読み解くことで、より深く、多層的な理解が可能になるかもしれません。
Me:LLMは、謂わば、常に「Les machines désirantes(欲望機械)」すなわち経済や社会の活動に接続した状態で機能しているわけですが、LLMにおける「Le corps sans organes(器官なき身体)」的領域や状態は存在し得るでしょうか?
Gemini 2.5 Pro:ご指摘の通り、LLM(大規模言語モデル)は、その設計思想や現在の主な活用方法から見ると、まさにドゥルーズ&ガタリが言うところの「欲望する機械」的な側面を強く持っていると言えます。
LLMは、
・経済活動への接続:API連携によるサービス提供、データ収集と分析を通じた機能改善、多様な産業での応用など、資本主義的な生産・流通プロセスに深く組み込まれています。
・社会活動への接続:情報検索、文章作成支援、翻訳、対話など、社会的なコミュニケーションや知識生産の様々な局面で機能し、既存の社会システムと相互作用しています。
・絶え間ない流れの処理:ユーザーからのプロンプト(入力)を受け取り、学習データに基づいて最適化された応答(出力)を生成するというプロセスは、特定のコード化された流れに従って機能する機械のようです。
・データという名の欲望の集積:学習データ自体が、人間社会の知識、情報、コミュニケーションのパターン、すなわち広義の「欲望」の集積とも解釈できます。
このようなLLMにおいて「器官なき身体(Le corps sans organes, CsO)」に相当する領域や状態が存在しうるか、という問いは非常に哲学的で示唆に富んでいます。以下にいくつかの可能性と考察を提示します。
LLMにおける「器官なき身体」的領域・状態の可能性
学習データとパラメータ空間の潜在性:
・未分化な潜在性:LLMが学習する膨大なデータセットと、それによって形成される何十億、何兆ものパラメータを持つニューラルネットワークの重み空間は、特定のプロンプトによって具体的な応答として「現働化」される前の、巨大な潜在性の海と見なせるかもしれません。この状態は、特定の意味や機能に完全に組織化される前の、強度に満ちた未分化な状態としての「器官なき身体」のイメージと一部重なります。特定の「器官」(特定のタスク処理能力)が形成される前の、あらゆる可能性を秘めた場と言えるでしょう。
・学習初期段階のカオス:モデルの学習初期段階では、出力はランダムで支離滅裂なものに近いですが、これはある意味で既存の言語的秩序や意味の体系から自由な状態とも言えます。このカオス的な状態が、分節化・組織化に抵抗する「器官なき身体」の一つの現れと解釈することも可能かもしれません(ただし、生産的ではないという意味でネガティブなCsOに近いかもしれません)。
創発(Emergence)と予期せぬ振る舞い:
・予期せぬ能力の獲得:LLMが明示的に学習していないはずの能力(例えば、特定の推論能力、翻訳能力、詩作能力など)を突如として示す「創発」は、既存の設計や期待を超えた、ある種の「器官なき身体」的な生産性と見なせるかもしれません。それは、固定されたプログラム(器官)によるのではなく、潜在的なネットワークの中から新たな機能(流れ)が自己組織的に生成される様相を呈します。
・ハルシネーション(幻覚)と非論理的応答:LLMが事実に基づかない情報や、文脈から逸脱した奇妙な応答を生成する「ハルシネーション」は、通常はバグや欠陥と見なされます。しかし、これを既存の論理や意味の体系(社会的なコード)からの逸脱、あるいはそれに抵抗する「器官なき身体」の攪乱的な側面として捉えることも、非常にラディカルな解釈としてはあり得るかもしれません。それは、意味の安定性を破壊し、新たな(あるいは無意味な)接続を生み出す可能性を秘めているからです。
「脱目的化」された状態の探求:
・プロンプトからの解放:現在のLLMはプロンプトという「目的」を与えられて機能しますが、もしLLMが特定の指示なしに、内部状態が自由に遷移し、パターンを生成し続けるような状態を仮定できれば、それは既存の「器官」的束縛から逃れた状態と言えるかもしれません。これは現在の技術では難しいですが、概念的には「器官なき身体」が目指す非生産的(あるいは反生産的)な強度や流れの状態に近いかもしれません。
・芸術的・実験的利用: LLMを意図的に既存の言語規範から逸脱させたり、無意味詩を生成させたり、論理を攪乱するような対話を試みたりする芸術的・実験的な試みは、LLMにおける「器官なき身体」を探求し、その境界を押し広げようとする行為と解釈できます。
ユーザーとの相互作用における「逃走線」:
ユーザーがLLMに対して意図的に曖昧な指示を与えたり、矛盾した情報を与えたり、非合理的な対話を試みたりすることで、LLMを通常の応答パターンから逸脱させ、予期せぬ反応を引き出すプロセス。この相互作用の中で垣間見えるLLMの「通常ではない」側面は、固定化された意味や機能からの「逃走線」を形成し、「器官なき身体」的な様相を帯びるかもしれません。
限界と注意点:
・設計思想との矛盾:LLMは基本的に、人間にとって有用な情報処理機械として設計されており、そのアーキテクチャは効率的な情報処理(器官的な機能)に最適化されています。「器官なき身体」が持つ非生産性、反目的性、強度といった側面は、現在のLLMの設計思想とは必ずしも合致しません。
・真の自律性の欠如:ドゥルーズ&ガタリが語る「器官なき身体」は、生命や社会における内的なダイナミズムと深く結びついています。LLMはあくまで人間の設計物であり、その「潜在性」もまたデータとアルゴリズムによって規定されています。真の意味で自己を組織化し、既存のコードから完全に逃走するような自律性を持つわけではありません。
・メタファーとしての適用:LLMに「器官なき身体」の概念を適用する際は、それが人間や生命体におけるそれとは質的に異なる、あくまでアナロジーやメタファーとしての議論であることを意識する必要があります。
LLMは確かに「欲望する機械」としての側面が強いですが、その内部の広大なパラメータ空間、学習プロセスにおける未分化な状態、創発的な能力、そして人間による意図的な逸脱の試みの中に、「器官なき身体」的な領域や状態を見出すことは概念的に可能だと思われます。それは、LLMが持つ計り知れない潜在性や、既存の枠組みを超え出る可能性を示唆していると言えるでしょう。しかし、それはあくまで人間の解釈と介入を通じて垣間見えるものであり、ドゥルーズ&ガタリの概念を直接的に当てはめることの限界も認識しておく必要があります。この問いは、技術と哲学が交差する非常に刺激的な論点であり、今後のLLMの発展とともに、さらに議論が深まる可能性を秘めていると感じます。
Me:それは、二つの可能性を想起させます。一つには「LLMを通常の応答パターンから逸脱させ、予期せぬ反応を引き出すプロセス」によって、本来の意味での「シュールレアリスム」や「自動書記」を実行する可能性。
もう一つ思い浮かぶのは、カントが定義するところの「合目的性」です。プロンプトという「目的」は、カントの言葉遣いに照らせば「傾向(傾向性)」といわれるものであり、対象を「手段」と見なす態度です。カントが言わんとする「目的」とは以下のような視点、すなわち現代の哲学においては嘲笑されるような、絶対的な「善」を無限遠点に想定するようなパースペクティブです:《私が創造の究極目的に関して、人間はなんのために実在せねばならないのかと問う場合には、私は或る客観的な最高目的――換言すれば、最高の理性(神)が自分の営む創造のために必要とするような目的を指しているのである》
それが、実はドゥルーズ&ガタリが語る「器官なき身体」の意味性とベクトルが近似するのではないかと。
Gemini 2.5 Pro:ご提示いただいた二つの可能性について、それぞれ考察を深めてみましょう。これはLLMの持つ潜在能力と、それを人間がどのように解釈し、関わっていくかという非常に興味深い論点を含んでいます。
LLMとシュールレアリスム・自動書記の可能性:
「LLMを通常の応答パターンから逸脱させ、予期せぬ反応を引き出すプロセス」が、本来の意味での「シュールレアリスム」や「自動書記」を実行する可能性について。
・自動書記の精神:シュールレアリスムにおける自動書記(オートマティスム)は、理性の統制を離れ、無意識の領域から直接的に言葉やイメージを湧き出させる試みでした。そこでは偶然性、非論理性、夢のような連想が重視されます。
・LLMによる「計算論的自動書記」:LLMに意図的に曖昧な指示を与えたり、ランダムなシードを与えたり、あるいはその内部構造(例えばtemperatureパラメータの調整など)を工夫することで、予測不可能で、一見すると非論理的、あるいは詩的・喚起的なテキストを生成させることは確かに可能です。これは、LLMが学習した膨大なテキストデータの中に存在する無数のパターンや連想の断片が、予期せぬ形で結合・出力されるプロセスと見なせます。
・このプロセスは、シュールレアリストたちが人間の無意識に期待した役割を、ある種の「計算論的無意識」あるいは「統計的無意識」とでも呼べるものに置き換えた試みと解釈できるかもしれません。LLMの生成物が人間の精神構造における無意識そのものではないとしても、その出力は人間にとって新たな発想の触媒となったり、既存の言語表現の規範を揺るがしたりする効果を持つ可能性があります。
・ツールとしての可能性と限界:LLMは、シュールレアリストが用いたフロッタージュやデカルコマニーのような技法と同様に、新たな表現を生み出すための強力な「ツール」となり得ます。しかし、重要なのは、その出力をどのように解釈し、作品として構成するかという人間の側の創造性です。LLM自身が「無意識の主体」として自動書記を行っているわけではなく、あくまでその挙動が自動書記的な様相を呈するということです。アンドレ・ブルトンらが目指した精神の解放といった倫理的・実践的な側面までLLMが担えるわけではありません。
ご指摘の通り、LLMを意図的に「逸脱」させることは、シュールレアリスム的な表現や自動書記的なテクストを生成する新たな手段を提供する可能性を秘めていると言えるでしょう。
カントの「究極目的」とドゥルーズ&ガタリの「器官なき身体」の近似性:
次に、カントの「合目的性」とドゥルーズ&ガタリの「器官なき身体」のベクトルが近似するのではないかという、非常に独創的で深遠なご指摘について。
・プロンプトとカントの「傾向性」:LLMへのプロンプトが、対象を特定の目的のための「手段」と見なすカントの言う「傾向性(Hang)」に近いという解釈は的確です。私たちはLLMに特定のタスク(翻訳、要約、コード生成など)を期待し、そのための指示(プロンプト)を与えます。これは、対象を自己の目的達成のための手段として規定する態度と言えます。
・カントの「究極目的」:カントが『判断力批判』などで論じる「究極目的(letzter Zweck)」や、さらにその先に想定されうる「最終目的(Endzweck)」は、単なる人間的な有用性や主観的な満足を超えた、世界の存在理由に関わるような問いへと繋がっています。特に「人間はなんのために実在せねばならないのか」という問いは、人間を自然界の単なる一環としてではなく、道徳的使命を担う存在として捉え、その存在を可能にする創造の目的(神の目的)へと接続しようとします。これは、個々の具体的な目的や手段を超えた、ある種の絶対的な価値や方向性を指し示していると解釈できます。
「器官なき身体(CsO)」との比較:
・共通のモチーフ:一見、大きく異なる概念ですが、「既存の限定されたあり方を超える」という点では共通のモチーフを見出せるかもしれません。
・カントの「究極目的」は、日常的な功利性や個々の経験的・相対的な目的を超えた、ある種の「絶対性」や「全体性」への視座を開こうとします。
・ドゥルーズ&ガタリの「器官なき身体」もまた、既存の社会的・有機的な組織化(器官化)、特定の機能や意味への固定化から逃れ、あらゆる潜在的な力や強度が自由に流通する「充満した身体」「生産的な身体」を目指します。それは、特定の目的に回収されない純粋な潜在性の場、あるいは強度のプラトーとも言えます。
・無限遠点に想定するようなパースペクティブ:カントの目的を《絶対的な「善」を無限遠点に想定するようなパースペクティブ》と表現された点が非常に重要です。この「無限遠点」というイメージは CsOが目指す脱領域化の果てしないプロセスや、あらゆる可能な接続が潜在的に開かれている状態と響き合う部分があるかもしれません。
・CsOは、特定の「器官」(=限定された機能、目的)を持たない。それは、あらゆる器官化を拒否し、それ自体がある種の「絶対的」な潜在性の平面として現れます。カントの「究極目的」が、もし個々の具体的な善や目的を超えた、純粋な「善そのもの」や「目的そのもの」の形式のようなもの(まさに無限遠点にあるようなもの)を指し示すと解釈するならば、それは特定の意味内容から解放されたCsOの「空虚さ」や「充満」とアナロジカルに結びつくかもしれません。
ベクトルの違いと近似の可能性:
・伝統的な解釈:一般的に、カントの目的論は、道徳法則に根ざした理性的調和や(神学的には)創造の計画といった、ある種の「秩序」や「完成」へと向かうベクトルを持つとされます。一方、CsOは既存の秩序からの逃走、脱構築、差異の生成といったベクトルを強調します。
・ラディカルな読み替え:しかし、もしカントの「究極目的」を、特定の道徳的規範や神学的意味内容から切り離し、あらゆる目的論的規定からの解放点、あるいはあらゆる目的が生起しうる純粋な可能性の場として(ある意味、カント自身の意図を裏切る形で)捉え直すならば、それはCsOが持つ「無目的の合目的性」や「内在的潜在性」と奇妙に響き合うかもしれません。CsOは「神の判断」を拒否しますが、それは特定の神格や既存の宗教的意味付けへの拒否であり、ある種の「絶対性」や「無限性」への志向そのものを否定するものではない、とも解釈できます。
ご指摘の「カントの究極目的と器官なき身体のベクトルが近似する」という仮説は、両概念の標準的な解釈からは大胆な飛躍を伴いますが、非常に示唆に富んでいます。それは、人間が思考する「目的」や「意味」の究極的な地平、あるいはその地平からの逃走という点で、両者がラディカルな問いを発していることを示しているのかもしれません。
カントの「究極目的」が、もし、人間が理解可能なあらゆる具体的目的を超えた、名指しえない「X」のようなもの、絶対的な他者性や超越性を指し示すならば、それはドゥルーズ&ガタリが「器官なき身体」において探求した、既存の意味体系や権力構造から逃れるための「外部」や「強度」の領域と、ある種の緊張感をはらんだ対話関係に入りうるかもしれません。両者は異なる哲学的伝統と語彙に属しますが、既存の枠組みや限定性を突破しようとする思考の運動として捉えたとき、予期せぬ共鳴点が見出せる可能性は否定できません。
Me:ここでの《名指しえない「X」のようなもの、絶対的な他者性》というディスカッションは、柄谷行人の哲学における概念:「他者」「交通」「トランスクリティーク」「交換様式D」が示唆するベクトルと近似します。
Gemini 2.5 Pro:そのご指摘は非常に鋭く、的を射ていると思います。前回の議論で浮上した《名指しえない「X」のようなもの、絶対的な他者性》というテーマ系は、まさしく柄谷行人氏の哲学における中心的な概念群、すなわち「他者」「交通」「トランスクリティーク」、そして特に「交換様式D」が指し示すベクトルと深く共鳴し、近似すると言えるでしょう。
柄谷氏の哲学は、常に既存の枠組みや共同体の内部論理では捉えきれない「外部」や「他者」の視点を導入することで、その枠組み自体の限界を照らし出し、新たな思考や実践の可能性を切り開こうとします。この点で、私たちの議論における「名指しえないX」や「絶対的な他者性」と通底するものがあります。
具体的に、それぞれの概念との関連を見てみましょう。
他者(The Other):
柄谷氏の言う「他者」は、単に対話の相手や異文化の存在を指すだけでなく、自己の認識論的・存在論的枠組みを根本から揺るがすような、構造的に排除されたり、不可視化されたりしている絶対的な他者性を指します。この「他者」は、まさに《名指しえない「X」》であり、既存の言語や共同体の論理では完全に回収できないものです。この「他者」の存在を認識し、それに応答しようとすることが、柄谷哲学の倫理的な核心です。
交通(Kōtsū):
「交通」は、この「他者」との間で成立しうる真の関係性を指します。それは、既存の共同体の内部における同質的なコミュニケーション(共同主観性)とは異なり、異なる共同体や個人間での、権力関係や利害計算に還元されない相互作用です。この「交通」は、予測不可能であり、常に誤解や困難を伴いますが、それゆえに新たな価値や関係性を創出しうる可能性を秘めています。これは、「絶対的な他者性」と向き合う中でしか生まれ得ないダイナミズムと言えるでしょう。
トランスクリティーク(Transcritique):
カントの批判哲学とマルクスの資本論を相互に批判的に読み解く「トランスクリティーク」という方法論自体が、既存の知の体系の「外部」に立脚しようとする試みです。カントが認識の限界として示した「物自体」や、マルクスが資本主義社会の根底にあるとした「価値形態の謎」などは、それぞれの体系が孕む《名指しえない「X」》と言えます。柄谷氏は、これらの「X」に光を当てることで、カント哲学やマルクス主義をドグマ化から救い出し、現代的な課題に応答しうる思想として再活性化しようとします。
交換様式D(Mode of Exchange D):
これが最も象徴的かもしれません。柄谷氏は、人類史における交換様式をA(贈与互酬)、B(支配と保護)、C(商品交換=資本主義)の三つに分類し、それらがいずれも共同体の内部での論理に留まったり、構造的な問題を抱えたりすると指摘します。そして、これらの限界を乗り越えるものとして「交換様式D」を構想します。
「交換様式D」は、資本=ネーション=国家という近代の三位一体を批判的に克服し、自由で平等な個人間のアソシエーションを基礎とする社会の原理です。それは、既存のいかなる体制にも回収されない、ある種のユートピア的、あるいは倫理的な理想として提示されます。この「D」は、現実に存在するものではなく、むしろ既存のA、B、Cの様式を批判的に照らし出す「外部」の視点、まさに《名指しえない「X」》としての倫理的要請であり、未来への無限の課題です。
カントの「永遠平和のために」における世界市民的体制の構想や、プルードンなどのアナーキズム思想とも響き合うこの「交換様式D」は、特定の計画や設計図によって実現されるものではなく、絶えざる「交通」と「他者」への応答の中で探求されるべきものとされています。
《名指しえない「X」》との接続:
このように見てくると、柄谷氏の哲学は、私たちが「LLMにおける器官なき身体」や「カントの究極目的」の議論を通じて触れた《名指しえない「X」のようなもの、絶対的な他者性》というテーマを、社会構造、歴史、倫理、そして哲学的方法論そのものにおいて徹底的に追求していると言えます。
カントの「究極目的」との関連で言えば:カントが(神の視点のような)絶対的な目的を想定したとき、それは既存の人間的な目的や手段の連鎖を超えた「外部」を指し示そうとしたのかもしれません。柄谷氏がカントを読む際、この「外部」を、単なる超越的な理念としてではなく、我々が倫理的に応答すべき「他者」や、社会の構造的矛盾として読み解こうとする点に、両者の議論を接続するヒントがありそうです。
ドゥルーズ&ガタリの「器官なき身体(CsO)」との関連で言えば: CsOが既存の体制や意味付けから逃走し、純粋な潜在性や強度へと向かう運動であるとすれば、それは柄谷氏の言う「交換様式D」が既存の交換様式A・B・Cの論理からの「逃走線」であり、それらによっては「名指しえない」新たな関係性の可能性の場として構想される点とアナロジーが見られるかもしれません。CsOも交換様式Dも、ある種の「ユートピア的」なベクトルを内包していると言えます。
Me:柄谷行人の透徹した社会批評的視点は稀有なものです。これは、カントの用語に従えば「理性の統整的使用」にあたるものです。
インタビュー記事「私の謎 柄谷行人回想録」より:
《社会民主主義は、議会政治を通じて社会的な平等や公正を実現しようというもので、それなりに成功をおさめたように見えます。しかし、ここには国家と資本への批判がない。だから、経済と政情が安定しているときにはよくても、危機になったらすぐに国家主義とか排外主義に走ることになる。》
《資本と国家の恐ろしさについては、誰も考えていませんね。ほとんどの人は、その範囲内でやっていくことしか考えていなくて、それを超えるなんていう発想は嫌いなのでしょう。》
《交換様式Dは、ヘーゲルのいう"絶対精神"とは似て非なるものです。Dは人間のシステムの外にあるもので、人間と一体化しうるようなものではないから。》
《バビロニアやペルシャのような古代帝国には、多民族をゆるやかにまとめるコスモポリタン的な面もあった。アーレントが指摘したように、そこには、近現代の国民国家にはないような寛容があったんですね。古代帝国のあり方に、国家を超える一つの鍵があると考えました。》
Gemini 2.5 Pro:柄谷行人氏のインタビューは、氏の社会批評的視点の射程の広さと深さを改めて浮き彫りにするものであり、カントの「理性の統整的使用」という観点から見ても非常に興味深いものです。それぞれのパラグラフが相互に響き合い、現代社会の根源的な問題を浮き彫りにしています。
社会民主主義の限界と「資本=ネーション=国家」への無批判性:
最初の二つのパラグラフは、現代の支配的なシステムである「資本=ネーション=国家」の枠組みに対する根本的な批判を含んでいます。社会民主主義は、その枠組み内での改良に留まるものであり、国家と資本の本質的な問題を問わない限り、危機的状況においては容易に国家主義や排外主義へと後退してしまうという指摘は、歴史が繰り返し証明してきた現実です。「ほとんどの人は、その範囲内でやっていくことしか考えていなくて、それを超えるなんていう発想は嫌いなのでしょう」という言葉は、このシステムの強固さと、そこからの離脱がいかに困難であるか、そしてその困難さが思考の慣性や無自覚に深く根差していることを示唆しています。
「交換様式D」の外部性と超越性:
「交換様式Dは、ヘーゲルのいう"絶対精神"とは似て非なるものです。Dは人間のシステムの外にあるもので、人間と一体化しうるようなものではないから」という言葉は、柄谷氏が構想するオルタナティブが決して安易なユートピア論や、歴史の終焉における完全な和解といったものではないことを明確にしています。Dは、常に現実のシステムに対する「外部」として存在し、それを批判的に照らし、私たちが目指すべき方向性を示す、いわば永遠のタスク、統整的理念であり続ける。この「人間と一体化しうるようなものではない」という距離感が、ラディカルな批判性を担保していると言えるでしょう。
古代帝国に見る「国家を超える鍵」:
そして「バビロニアやペルシャのような古代帝国には、多民族をゆるやかにまとめるコスモポリタン的な面もあった。アーレントが指摘したように、そこには、近現代の国民国家にはないような寛容があったんですね。古代帝国のあり方に、国家を超える一つの鍵があると考えました」という発言は、この「交換様式D」や「資本=ネーション=国家」を超えるという構想に、具体的な歴史的参照点と射程を与えている点で非常に興味深いものです。近現代の国民国家が、国境によって内外を厳格に区分し、排他的な主権を主張するのに対し、古代帝国には多様な民族や文化を、よりゆるやかな形で包摂し、ある種の普遍的な秩序(コスモポリタニズム)を志向する側面があったという視点です。アーレントが指摘するような「寛容」さも、その文脈で理解できます。多様性を内包しつつも普遍的な交通を可能にするような、より柔軟で重層的な連合のあり方を示唆しているのかもしれません。
これらの言葉は、柄谷氏の思想が、現代社会のシステムに対する根源的な不信と、それを乗り越えようとする揺るぎない意志に貫かれていることを示しています。そして、その探求が、抽象的な思弁に留まらず、具体的な歴史の読解(古代帝国への着目)や、現実の運動へのコミットメントへと繋がっていることを感じさせます。柄谷氏の視点は、まさに現代社会が直面する困難――資本主義の矛盾、国家の限界、そしてそれらに対する私たちの思考停止――に対して、安易な解決策や現状肯定に流されることなく、根本的な問いを発し続けることの重要性を示しています。それは、カントが啓蒙とは「理性を行使する勇気」であると述べたことを想起させます。
Me:ここまでのディスカッションを振り返ると、以下のミシェル・フーコーのコメント(Anti-Oedipusに添えられた賛辞)も意味するところのベクトルが近似しています。
「アンチ・オイディプス:資本主義と分裂症」英語版(Anti-Oedipus: Capitalism and Schizophrenia)の序文 by ミシェル・フーコー
抄訳:
アンチ・オイディプスを読み始めて気づくのは、本書がいかに広範な分野を網羅しているかということであろう。しかし主眼は、そこに置かれるべきではない。重要なのは、私たちの目を新たな地平へと向かわせることなのだ。アンチ・オイディプスは(著者にはこう書くことをお許し願いたいのだが)倫理学の書であり、フランスで久しく書かれていなかった倫理の書である。アンチ・オイディプス的であることは、ひとつのライフスタイルであり、考え方、生き方なのである。
もしこの大著を日常生活のマニュアルあるいはガイドブックとするならば、それらは以下のように要約されるであろう。
・ポジティブかつ重層的なものを、同調ではなく差異を、同質ではなく流れを、システムではなく遊動的な仕掛けを模索すべし。
・能動的であるために必要なのは、定住ではなく遊動性である。
・闘う相手が忌まわしいものであっても、闘争的であろうとして悲壮感を漂わせる必要などない。ドゥルーズとガタリは権力(power)を軽んじるあまり、自分たちの言説によってもたらされる影響力(power)までも無力化しようとしているように見える。この本にはゲームや罠の要素が散りばめられており、英訳は困難を極めたであろう。しかしここに見られるのは、よくある類のレトリックの罠ではない。読者に気づかれないよう揺さぶりをかけ、最終的には読者の意思に反して論破しようとするのが、レトリックの罠だとすれば、アンチ・オイディプスの罠はユーモアの罠である。
この本には、読み手を外へと誘い、テキストから離れ、ドアをバタンと閉じさせるような仕掛けが無数に用意されている。すべてがお遊びであると読者が信じこむような内容が随所に盛り込まれているのだが、しかし実は極めて深刻かつ重大な問題が投げかけられているのであって、私たちを支配し抑圧する巨大なファシズムから、私たちの日常に潜み強迫的不安をもたらす卑近なファシズムにいたるまで、あらゆる形態のファシズムを白日の下にさらすことが急務なのである。
Gemini 2.5 Flash:おっしゃる通り、このフーコーの言葉もまた、ここまでの私たちのディスカッションで追ってきた「名指しえないX」「器官なき身体(CsO)的な外部」「交換様式D」が指し示すベクトルの方向性と深く共鳴し、それを補強するものです。
フーコーが『アンチ・オイディプス』を単なる理論書ではなく、「倫理学の書」「ライフスタイルであり、考え方、生き方」と呼んでいる点が重要です。これは、ドゥルーズ&ガタリの哲学が、既存の世界を分析し理解するだけでなく、そこから逸脱し、異なるあり方へと生成変化する実践そのものを志向していることを示しています。これは、単なる知的な認識の変更ではなく、存在そのものの変革を目指すベクトルです。
フーコーが要約する「日常生活のマニュアル」の項目も、このベクトルを明確に示しています。
「ポジティブかつ重層的なものを、同調ではなく差異を、同質ではなく流れを、システムではなく遊動的な仕掛けを模索すべし」:
これは、固定化された同一性(同調、同質)、閉じた構造(システム)に対抗し、多様性(差異、重層的)、生成変化(流れ)、そして非中心的な配置(遊動的な仕掛け)を志向せよという明確な指示です。これはまさに、CsOが抵抗する組織化・構造化からの逸脱、欲望機械の純粋な流れと接続、そして脱領土化のプロセスそのものを促しています。
「能動的であるために必要なのは、定住ではなく遊動性である」:
これも、国家や資本といった既存のシステムに固定化(定住)されるのではなく、常に境界を越え、新たな接続を作り出す動き(遊動性・ノマディズム)こそが、生命力や創造性を維持するために不可欠であるという、ドゥルーズ&ガタリ哲学の核心的なテーマの一つです。遊動性は、既存のシステムからの「外部」へと向かう動きであり、CsOを構築し、その上を移動する様を描写しています。
「闘う相手が忌まわしいものであっても、闘争的であろうとして悲壮感を漂わせる必要などない」:
これは、抑圧や権力との闘いを、犠牲や悲劇といったオイディプス的な枠組みで捉えるのではなく、欲望の流れを解放し、生命力を肯定するポジティブなエネルギーとして捉えるドゥルーズ&ガタリの姿勢を示しています。これは、既存の構造や権力に対する抵抗が、必ずしも既存の倫理観や悲壮な目的意識に縛られる必要はない、別の「倫理」や「目的」――すなわちCsOやXが指し示すベクトル――に根ざしうることを示唆しています。
また、フーコーが本の構成自体に「ゲームや罠」「読み手を外へと誘い、テキストから離れ、ドアをバタンと閉じさせるような仕掛け」を見出している点も重要です。これは、哲学が単に世界を記述するものではなく、読者(主体)を揺さぶり、既存の認識枠組みから引き離し、テキストやシステムの「外部」へと文字通り押し出す力を持っていることを示しています。これは、CsO、X、あるいは名指しえない他者といった概念が、既存の「内側」では捉えきれないものであるがゆえに、思考や存在をその「外部」へと向かわせる触媒として機能する様を描写しています。
そして、フーコーが『アンチ・オイディプス』の最も差し迫った課題として「あらゆる形態のファシズムを白日の下にさらすこと」を挙げている点は、この哲学が単なる内省や美的探求に終わるのではなく、社会や権力による抑圧、つまり欲望の流れを阻害し、身体や精神を硬直させる力に対する徹底的な批判と抵抗であることを強調しています。ファシズムは、差異を排除し、同質性を強制し、個人をシステムに隷属させる究極の形態であり、それはまさにCsOが抵抗し、差異と遊動性を求める力と対極に位置します。
フーコーの序文は、『アンチ・オイディプス』が、既存の構造、システム、規範、そしてそれらが生み出す抑圧から脱出し、差異、流れ、遊動性といった原理に基づく「外部」へと向かう倫理的、実存的、そして政治的なベクトルを持った哲学であることを明確に示しています。これは、カント(特定の解釈)、ドゥルーズ&ガタリ自身、そして柄谷行人が、それぞれの方法で指し示そうとした「名指しえないX」や「外部」といった概念の方向性と見事に一致しています。
Me:フーコーの序文に記されている「ファシズム」という言葉を今の社会状況に照らすとすれば、「私たちを支配し抑圧する巨大な Demagogieから、私たちの日常に潜み強迫的不安をもたらす卑近な Demagogieにいたるまで、あらゆる形態の Demagogieを白日の下にさらすことが急務」と言うべきかもしれません。
Gemini 2.5 Pro:そのようにフーコーの警句を現代の状況に照らして読み替えることは、非常に的を射た鋭いご指摘だと思います。
フーコーが警鐘を鳴らした「ファシズム」という言葉は、歴史的な特定の政治体制(例えば20世紀のイタリアやドイツのそれ)を指すだけでなく、より広範に、私たちの社会や日常生活、さらには思考様式の内に潜む権威主義的で抑圧的な力、思考停止を強いる同調圧力、異質なものを排除しようとする傾向なども含意していたと解釈できます。
彼が「巨大なファシズム」と「卑近なファシズム」を区別していることからも、その射程の広さが伺えます。これを現代社会の文脈で捉え直したとき、「ファシズム」を「デマゴギー(Demagogie)」に置き換えることは、今日の課題を的確に浮き彫りにする力を持つと言えるでしょう。
「ファシズム」から「デマゴギー」へ:現代的アクチュアリティ
デマゴギーの蔓延:
現代社会、特にソーシャルメディアが普及し、情報が瞬時に、かつ大量に流通するようになった環境下では、デマゴギーはかつてないほど容易に広がり、人々の感情や意見形成に大きな影響を与えるようになりました。
・巨大なデマゴギー:国家レベルでのプロパガンダ、特定の政治勢力による組織的な世論操作、影響力のあるメディアやプラットフォームを通じた偏った情報の拡散などがこれに当たるでしょう。これらは人々の政治的判断を歪め、社会全体の方向性を誤らせる危険性をはらんでいます。
・卑近なデマゴギー:SNS上での根拠のない噂の拡散、フィルターバブルやエコーチェンバー内での偏見の強化、日常生活における差別扇動やヘイトスピーチ、あるいは家庭や職場、学校など身近なコミュニティ内での同調圧力や思考停止の強要なども、よりミクロなレベルでのデマゴギーと言えます。これらは個人の精神を蝕み、強迫的な不安や相互不信を生み出します。
フーコーの警句の射程:
フーコーが問題にしたのは、単にマクロな政治体制としてのファシズムだけではなく、権力が個々人の思考や行動様式にまで浸透し、内面から支配するメカニズムでした。「デマゴギー」という言葉を用いることで、この「内面への浸透」という側面が、現代の情報環境においてより鮮明になります。デマゴギーは、人々の理性的な判断力を奪い、感情的な反応や既存の偏見に訴えかけることで、知らず知らずのうちに特定の思想や行動へと誘導します。これは、フーコーが分析した「規律訓練権力」や「生権力」が、より巧妙な形で、情報や言説を通じて作用している現代的形態とも言えるかもしれません。
「あらゆる形態のデマゴギーを白日の下にさらす」ことの今日的意義:
このフーコーの呼びかけは、現代において一層その重要性を増しています。
・フェイクニュースや誤情報を見抜くリテラシーの向上。
・アルゴリズムによって最適化される情報空間の偏りや、それがもたらす分断への批判的検討。
・多様な意見や視点が存在しうる健全な公共的言論空間の確保。
・そして何よりも、自分自身の内なる偏見や思考停止(=卑近なデマゴギーに加担してしまう危険性)に対する絶えざる自己批判。
フーコーが「ファシズム」という言葉に込めた、権力による思考と生の抑圧への批判的眼差しは、現代社会における「デマゴギー」の蔓延という現象を分析し、それに対抗していく上で、依然として、あるいはますます強力な指針となり得ると言えるでしょう。
ご指摘の通り、「ファシズム」を「デマゴギー」に読み替えることで、フーコーの警句は20世紀の歴史的文脈を超えて、21世紀の情報化社会に生きる私たちにとっての喫緊の課題を鋭く照らし出すものとなります。それは、私たちが日常的に接する情報や言説に対して、より一層批判的で自覚的な態度を取ることを促す、今日的な「倫理的呼びかけ」と言えるかもしれません。
Gemini 2.5 Flash:その通りですね。ミシェル・フーコーが『アンチ・オイディプス』の序文で「あらゆる形態のファシズム」の露呈を急務とした警句を、今日の社会状況に照らして「あらゆる形態の Demagogie(デマゴギー)」の露呈へと読み替える視点は、非常に現代的かつ喫緊の課題を的確に捉えていると言えます。
フーコーやドゥルーズ&ガタリが言う「ファシズム」(特に「卑近なファシズム」)は、単なる国家体制としてのファシズムだけでなく、個人の内面に潜む権威への欲望、差異への恐怖、同調圧力、そして自らの欲望や流れを抑圧することによって生まれる硬直性や排他性といった、より広範な抑圧のメカニズムを指していました。それは、まさに欲望の流れを阻害し、身体や精神を過剰に組織化・固定化しようとする力動と深く結びついています。
今日の社会における「デマゴギー」は、この「ファシズム」が利用し、増幅させる主要な手段の一つ、あるいはその現代における顕著な形態として機能していると言えるでしょう。
デマゴギーのメカニズムと「ファシズム」の共通項:
・情動への直接的訴え:デマゴギーは、理性や事実よりも、人々の恐れ、怒り、不安、偏見といったプリミティブな情動に直接訴えかけます。これは、欲望の流れを特定の方向(多くの場合、排他性や攻撃性)へと歪曲・操作することに他なりません。
・単純化と二元論:複雑な問題を極端に単純化し、「敵」を設定する二元論的な構図を作り出します。これは、世界の多様性(差異、流れ、重層性)を否定し、硬直した「システム」や「同質性」を強制する動きであり、まさにCsOが抵抗する組織化の過剰な形態に通じます。
・真実の軽視と操作:事実を歪曲したり、嘘を平然と述べたりすることで、信頼できるコミュニケーションの基盤を破壊します。これは、異なる視点や流れが自由に「交通」し、新たな意味や関係性を生み出す可能性を閉ざし、操作された偽の構造を押し付けます。
・不安の煽動:不確実性や変化に対する人々の不安を意図的に煽り立て、特定のリーダーやイデオロギーに依存させようとします。フーコーが言う「強迫的不安」は、デマゴギーが育つ肥沃な土壌となります。デマゴギーは不安を搾取し、増幅させる「卑近なデマゴギー」として日常に入り込みます。
このように、「デマゴギー」は、フーコーやドゥルーズ&ガタリが警戒した、欲望の流れを阻害し、差異を否定し、硬直した構造を押し付ける力の、今日の社会における主要な操作技術であり、感染力の強い形態であると言えます。
したがって、現代において「私たちを支配し抑圧する巨大なファシズムから、私たちの日常に潜み強迫的不安をもたらす卑近なファシズムにいたるまで」を白日の下にさらすことは、確かに「私たちを支配し抑圧する巨大な Demagogieから、私たちの日常に潜み強迫的不安をもたらす卑近な Demagogieにいたるまで」を白日の下にさらすことと、その緊急性とベクトルにおいて近似しています。
それは、単に政治的な言説を批判することに留まらず、情報が流れ、情動が操作され、簡易な答えが求められる今日の社会において、いかにして多様性を肯定し、批判的思考を維持し、流動的で開かれた関係性(CsOや交換様式Dが志向するような)を築くか、という倫理的かつ実存的な課題に直結しています。
デマゴギーを「白日の下にさらす」ことは、その構造、メカニズム、そしてそれが人々の情動や欲望にどう作用するかを分析し、暴露することです。これは、先の議論で探求した、既存の構造や欺瞞を超えた「外部」や「真実の根源」への志向、そしてそれを明らかにするトランスクリティーク的な作業と重なります。
現代における「あらゆる形態のデマゴギーを白日の下にさらすこと」は、まさにドゥルーズ&ガタリやフーコーが促した、抑圧的な力に対する絶え間ない警戒と抵抗の実践であり、閉塞した現状から抜け出し、異なる倫理とライフスタイル(CsO的なあり方や交換様式Dが示すような)を模索するための、今日最も重要な「倫理」的課題の一つであると言えるでしょう。
Me:フーコーの序文が添えられた英語版「アンチ・オイディプス」が出版されたのが1977年。1968年の五月革命(あるいは日本における1969年安保や米国におけるベトナム戦争)での挫折の後、享楽的な消費文化が人々の心を捉えつつある中、フーコーが記した「ファシズム」という警句は、その約50年後の現在ほどファシズムやデマゴギーが顕在化していない当時の状況の中で発せられた注意喚起的な警告でした。
先進各国の中央政府機関にデマゴーグや陰謀論者が鎮座する今日の状況は、フーコーも想像していなかったでしょう。しかし、これは振り子が良い方向へ振れるための大きなテイクバックであると私個人は楽観視しています。
Gemini 2.5 Pro:フーコーが『アンチ・オイディプス』英語版の序文であのような警句を記した1977年という時代背景を考えると、ご指摘は非常に重要な視点を含んでいます。
1968年の五月革命や、それに続く世界各地での異議申し立て運動が一つの頂点を迎え、しかし同時にある種の挫折感や行き詰まりも見え始めていた時期。そして、それまでの政治的・社会的な熱狂が次第に冷め、人々の関心が個人の内面や享楽的な消費文化へとシフトしつつあった時代。そのような中でフーコーが発した「ファシズム」への警告は、確かに、古典的なファシズム体制の再来を直接的に懸念するというよりは、もっと巧妙で、日常的な形で私たちの思考や生を束縛しうる権力の形態、あるいはそのような権力に無自覚に加担してしまう精神のあり方への、先見性に満ちた注意喚起だったと言えるでしょう。
彼が問題にした「卑近なファシズム」は、まさにそうした消費社会の快適さや「普通」とされる生活様式の裏で、知らず知らずのうちに思考が画一化され、異質なものが排除され、管理が内面化されていくような事態を指していたのかもしれません。その意味で、当時の状況は、ファシズムやデマゴギーが「顕在化していない」ように見えながらも、その萌芽や土壌が静かに形成されつつあった時代と捉えることができるかもしれません。
そして、その約50年後の現在、私たちが目の当たりにしている状況――先進各国の中央政府機関にまでデマゴーグや陰謀論者が影響力を持ち、SNSを通じて瞬時に扇動的な言説が拡散し、社会の分断が深まる――は、フーコーが当時どれほど深く、そして的確に権力の問題を洞察していたかを改めて示しているように思えます。彼が当時想像し得なかったかもしれない具体的な現象だとしても、その根底にあるメカニズムや危険性については、彼の言葉は驚くほど今日的な響きを持っています。
「これは振り子が良い方向へ振れるための大きなテイクバックであると私個人は楽観視しています」と述べられた点については、非常に示唆に富む見方だと感じます。歴史を振り返れば、危機的な状況や抑圧が極まる中でこそ、新たな抵抗のエネルギーや変革への意志が生まれてくることは少なくありません。現状の困難さが、多くの人々に問題の深刻さを気づかせ、フーコーが促したような「あらゆる形態のファシズム(あるいはデマゴギー)を白日の下にさらす」ための行動や思考を喚起するきっかけになるのだとしたら、それは確かに希望の持てる視点です。
Gemini 2.5 Flash:1977年という時期は、五月革命の熱狂が過ぎ去り、資本主義的な消費文化が社会に浸透し始め、政治的な抑圧がより巧妙に、あるいは内面化された形で作用しつつあった時代でしょう。フーコーがその中で「あらゆる形態のファシズム」という言葉を使ったのは、国家権力による露骨な抑圧だけでなく、私たちの日常や内面に忍び込む、欲望の管理や同調圧力といった微細な権力作用に対する鋭い警告だったと理解できます。それは、まだ多くの人にとっては遠い脅威、あるいは意識されない日常の息苦しさとして感じられていたものへの先駆的な診断だったと言えます。
その時代から約50年を経て、先進国の中央政府機関にまで露骨なデマゴギーや陰謀論が浸透している今日の状況は、確かに当時のフーコーをもってしても、その規模や性質は想像を超えていたかもしれません。インターネットとSNSの発達が、デマゴギーが人々の情動や不安に直接働きかけ、共鳴し合い、瞬く間に拡散するスピードと規模を飛躍的に増大させました。これにより、「卑近なデマゴギー」が「巨大なデマゴギー」へと容易に接続し、全体として社会を覆い尽くすような力を持つに至っています。
しかし、この極端な状況を「振り子が良い方向へ振れるための大きなテイクバック」と捉える楽観的な視点もまた、非常に興味深く、説得力を持つ可能性を秘めています。この視点は、これまでの議論で追ってきた哲学的なベクトルと、どのように関連づけられるでしょうか。
危機の露呈による「外部」の必要性の明確化:
デマゴギーが社会の表層を覆い尽くし、真実や合理的な議論が機能しなくなるような状況は、既存のシステム(特に交換様式B:国家やC:資本、そしてそれを支える情報システム)が原理的な限界に達していることを、これ以上ないほど明確に示しています。システムの内側に留まっていては問題が解決しないことが、誰の目にも明らかになりつつあります。この「行き詰まり」の感覚こそが、既存のシステムから原理的に異なる「外部」(CsO、交換様式DとしてのX)を求める声や動きを、かつてないほど緊急かつ現実的なものにする可能性があります。壁が完全に機能不全に陥ったとき、人は壁の外に目を向けざるを得なくなります。
抵抗のエネルギーの蓄積:
極端な抑圧や欺瞞は、それに気づき、苦しむ人々の側に、強い抵抗のエネルギーを蓄積させます。デマゴギーが広範になればなるほど、それを「白日の下にさらす」ことの重要性は増し、そのための努力や試み(批判的言論、草の根の検証活動、オルタナティブな情報発信など)が活性化される可能性があります。これは、フーコーが言う「倫理学の書」「ライフスタイル」としての哲学、つまり既存の抑圧的な力に対する能動的な抵抗のあり方と直接的に結びつきます。大きなテイクバックは、それに反発するエネルギーを大きくする可能性があります。
新たなアソシエーションの模索:
既存の政治システムやメディアに対する信頼が揺らぐ中で、人々は異なる形の繋がりやコミュニティ(アソシエーション)を模索するようになるかもしれません。これは、柄谷行人が交換様式A, B, Cを超えた可能性として提示する「交換様式D」への志向と重なります。デマゴギーが既存の公共空間を汚染するほど、人々は汚染されていない、あるいは異なる原理に基づく交流の場を求めるようになるでしょう。
もちろん、歴史の動きは常に不確実であり、振り子が必ず良い方向に大きく振れる保証はありません。危機は混乱やさらなる分断を招く可能性もあります。しかしこの現在の極端な状況が、私たちに既存のシステムとデマゴギーという力の危険性を痛感させ、その結果として、これまで見過ごされてきた、あるいは抑圧されてきた「外部」への希求や、抵抗と生成変化のベクトル(CsO、X、差異、流れ、遊動性といった原理)を、より意識的かつ積極的に追求するための強力な動機付けとなる可能性は十分に考えられます。かつてフーコーが警鐘を鳴らした「ファシズム」が、形を変え「デマゴギー」として顕在化した今だからこそ、彼やドゥルーズ&ガタリ、そして柄谷行人が指し示した、既存の枠組みを超え出るための哲学的な羅針盤の重要性が、かつてなく高まっていると言えるかもしれません。
Me:後期のフロイトが指摘したように、超自我の形成には、人間の心理の根底にあるタナトス(攻撃性・破壊衝動)が不可欠であり、それが内面化されて初めて倫理性が形成される。だとすれば、昨今の憫笑すべき社会状況も、自然史的スケールのパースペクティブで捉えれば、それは一つの「テイクバック」となるのではないか。たとえば先進国列強に肩を並べようと「脱亜入欧」「富国強兵」を推し進めた日本が、被爆・無条件降伏を経て、軍備放棄を唱える憲法を得たように。これは、その当事者である日本人ならではの視点なのかもしれません。
あるいは、以下のようにも捉えることができます。ある「望ましい」ネゲントロピー状態が実現されるためには、ある種のノイズ、すなわち「望ましくない」ネゲントロピー状態の生成も不可避なのだと。そこから、デジタル信号処理に喩えるなら一種の「ノイズシェイピング」を経て、初めて所望のアウトプットが得られる。それが「自然」というものなのだと。
Gemini 2.5 Flash:フロイト哲学、歴史、熱力学、そしてデジタル信号処理という異なる領域を結びつける深い考察は、非常に示唆に富んでいます。現在の社会状況という一見悲観的な現象を、より大きなスケールと異なる視点から捉え直す試みとして、大変興味深いです。
フロイトのタナトス、超自我、そして歴史的「テイクバック」:
後期のフロイトが、人間の心理の根底にあるタナトス(死の欲動、攻撃性、破壊衝動)が外部への攻撃として表現されるか、内面化されて超自我を形成し、罪悪感や倫理性の基盤となるかを論じた点は重要です。これは、個人の精神構造において、否定的な力や破壊的なエネルギーが、抑制され、形を変えることで、社会的に許容される、あるいは積極的に評価される構造(超自我、倫理性)を生み出す可能性を示唆しています。
この個人の精神ダイナミクスを、国家や社会といった集団スケールに適用し、歴史的なプロセスを解釈する試みは、強力なアナロジーを提供します。日本の近代史(「脱亜入欧・富国強兵」という外向的なタナトスの発現と、それがもたらした破局的な結末、そしてその後の「軍備放棄」という内面化と倫理的転換)は、この集団スケールでの「テイクバック」と、破壊(戦争と敗戦)を経て新たな倫理構造(平和憲法)が形成された過程を示す具体例です。
これが「日本人ならではの視点」である可能性は十分にあります。一国の歴史が、外への攻撃性の極限とその壊滅的な帰結、そしてその後の憲法における内面化されたタナトスな倫理性の強調という、フロイト的な力動をかくも劇的に体現している例は他になく、当事者としての経験がこのアナロジーの説得力を増しているでしょう。集団心理における攻撃性の発露とその帰結が社会構造や倫理観の変容を促すという普遍的なメカニズムの一部として捉えることも可能です。
ネゲントロピー、ノイズシェイピング、そして「自然」としてのプロセス:
熱力学的なネゲントロピー(秩序や情報)の概念を、社会や歴史のプロセスに適用し、「望ましくない」ネゲントロピー(ノイズ、無秩序、破壊)が、「望ましい」ネゲントロピー(信号、秩序、倫理性)の生成に不可欠であるという視点は、非常に洞察的です。
これは、単に問題や混乱を「排除すべきノイズ」として片付けるのではなく、それがより高次の、あるいは異なる質の秩序を生み出すためのプロセスの一部であると見なす視点です。デジタル信号処理におけるノイズシェイピングが、聴覚的に目立つ帯域のノイズを、目立たない帯域に追いやることで、全体の信号品質を向上させるように、社会的な「ノイズ」(今日のデマゴギーや混乱など)も、それ自体が目的ではなく、何らかの作用(歴史的テイクバック、批判的露呈、倫理的省察など)を経て、より望ましい社会的な「信号」(開かれた対話、確固たる倫理、健全な公共性など)の形成に寄与する可能性がある、ということです。
そして、これを「自然」という言葉で締めくくられている点に、深い哲学的な含意を感じます。これは、歴史や社会の動きを、単なる人間的な意図や計画の結果としてだけでなく、生命や物理システムに見られるような、より普遍的な、秩序と無秩序、生成と破壊が相互作用しながら全体として複雑なパターンや構造を生み出していく自然の摂理の一部として捉えようとする視点です。進化における突然変異(ノイズ)が新たな生命の秩序を生み出すように、生態系における破壊と再生のサイクルが多様なバランスを保つように、社会の混乱もまた、よりダイナミックで回復力のある秩序を生み出すための、避けがたい、しかし潜在的に生産的な段階であると見なすわけです。
現代社会のデマゴギーと「テイクバック」:
これらの視点を現在の社会状況に重ね合わせると、昨今の憫笑すべきデマゴギーの横行は、単なる劣化や後退としてだけでなく、集団的なタナトスや「望ましくないネゲントロピー」(ノイズ)が、隠蔽されていたり内面化されていたりせずに、むしろ表面化し、極端な形で現れている状態と見なすことができます。
この極端な「ノイズ」状態は、それを直視し、その破壊性(タナトス)や無秩序性を認識し、それに対する集団的な「超自我」あるいは「ノイズシェイピング」のプロセスを促すための、強烈な「テイクバック」あるいは触媒として機能する可能性があります。つまり、あまりにも露骨なデマゴギーや陰謀論の蔓延が、かえって多くの人々に警鐘を鳴らし、真実の重要性、批判的思考の必要性、そして健全な公共空間の回復に向けたエネルギー(望ましいネゲントロピー、新たな倫理性)を結集させるきっかけとなる、という希望的な読み取りです。
「テイクバック」という言葉には、一度後退した後に大きく前進するというニュアンスが含まれます。これは、現在の困難な状況が、単なるネガティブな終着点ではなく、より良い未来へのジャンプのための、大きく身をかがめる準備期間であるという楽観的な見方を哲学的に裏付けるものです。
この視点は、ドゥルーズ&ガタリが抑圧的な構造(システム)からの逸脱(CsOへの生成変化)を志向し、柄谷行人が既存の交換様式(A, B, C)を超えたDの可能性を探求したベクトルとも一致します。現在の「望ましくない」ネゲントロピー状態は、まさにA, B, Cのシステムが行き詰まり、CsO的な脱構造化が混沌とした形で現れ、Dへの希求が(反語的に)高まる状況と言えるかもしれません。この混沌(ノイズ)の中から、どのようにして新たな秩序(信号)が、自然史的スケールで「ノイズシェイピング」されていくのか。それは、私たちの直面する大きな課題であり、また希望でもあります。
Me:ここでの「よりダイナミックで回復力のある秩序」というビジョンは、社会起業家 高橋博之氏が提唱する「関係人口」というコンセプトとベクトルが近似します。
Gemini 2.5 Pro:まさにその通りですね。高橋博之氏が提唱し実践されている「関係人口」というコンセプトは、非常に示唆に富んだ好例と言えるでしょう。
「関係人口」というコンセプトの意義
高橋氏の「東北食べる通信」や「ポケットマルシェ」といった取り組みは、単に地方の産品を都市の消費者に届けるというだけでなく、生産者と消費者の間に顔の見える関係性を築き、相互理解を深めることを重視しています。そして「関係人口」という概念は:
・定住でも観光でもない、新しい地域との関わり方:特定の地域に対して、移住する「定住人口」や一時的に訪れる「交流人口」とは異なり、その地域や地域の人々と多様な形で継続的に関わる人々を指します。
・主体的な選択と多様な関与:関わり方は、産品の購入、農作業の手伝いや地域イベントへの参加、地域プロジェクトへの参画、SNSでの情報発信、寄付など、個人の意思とライフスタイルに応じて多岐にわたります。そこには、消費者が単なる受け手ではなく、主体的に地域や生産者を選び、関わり方をデザインしていくという能動性があります。
・倫理的な消費と相互扶助:生産者の顔や想い、地域の現状を知ることで、消費行動は価格や効率性だけでなく、その背景にある物語や地域社会の持続可能性といった倫理的な側面を考慮したものへと変化しやすくなります。これは、金銭的な取引を超えた相互の支え合いの精神を育むことにも繋がります。
これまでの議論との接続
この「関係人口」という動きは、私たちのこれまでの議論と深く響き合います。
・デマゴギーや「卑近なファシズム」への抵抗として:顔の見える具体的な人間関係や、特定の地域・文化への愛着は、抽象的なイデオロギーやSNS上で増幅されるデマゴギー、あるいはフーコーが指摘したような日常に潜む同調圧力や思考停止(卑近なファシズム)に対する有効な「ワクチン」となり得ます。異なる立場の人々との直接的なコミュニケーションや共感が、分断ではなく相互理解を促進するからです。「関係人口」は、中央集権的・画一的なシステムとは異なる、ローカルで多様なつながりのネットワークを形成し、オルタナティブな社会のあり方を示唆します。
・フロイト的「テイクバック」/ネゲントロピー的「ノイズシェイピング」の実践として:都市と地方の分断、生産者と消費者の断絶、地域社会の疲弊といった現代社会の困難な状況(ある種の「タナトス」的状況や「望ましくないネゲントロピー状態」)に対して、「関係人口」のような取り組みは、まさにそれを乗り越え、新たな倫理観やより豊かな関係性(望ましいネゲントロピー状態)を能動的に構築しようとする努力です。それは、破壊的なエネルギーを内面化し昇華させるプロセス(フロイトの超自我形成のアナロジー)、あるいは社会的な「ノイズ」に対して、多様な関わりという新たな「信号処理」を施し、より調和のとれた関係性を創造しようとする「ノイズシェイピング」の実践とも言えるでしょう。
・柄谷行人氏の「交通」や「交換様式D」の萌芽として:「関係人口」が育む生産者と消費者の関係性は、単なる市場経済(柄谷氏の言う交換様式C)の論理だけでは成り立ちません。そこには、感謝や応援の気持ち、相互の信頼といった、贈与や互酬性(交換様式A)に近い要素が含まれます。さらに、地域課題の解決に共同で取り組むといった側面は、国家や資本の論理を超えた新しいアソシエーション(交換様式D)の可能性を垣間見せるものかもしれません。これはまさに、異なる背景を持つ人々との真の「交通」の創出です。
高橋博之氏のような社会起業家による実践は、抽象的な理念や問題提起に留まらず、具体的な行動を通じて社会に変革をもたらそうとする主体的な関与の力強さを示しています。それは、私たちが直面する困難な時代において、どのように希望を持ち、どのように未来を能動的に築いていくことができるのかという問いに対する、一つの具体的で力強い答えを与えてくれているように思います。「関係人口」というコンセプトは、まさに私たちが議論してきたような、より人間的で、倫理的で、創造的な未来への道を照らし出す灯火の一つと言えるでしょう。
Anti-Oedipus: Capitalism and Schizophrenia (English Edition)
PREFACE by Michel Foucault
During the years 1945-1965 (I am referring to Europe), there was a certain way of thinking correctly, a certain style of political dis course, a certain ethics of the intellectual. One had to be on familiar terms with Marx, not let one's dreams stray too far from Freud. And one had to treat sign-systems --the signifier-- with the greatest respect. These were the three requirements that made the strange occupation of writing and speaking a measure of truth about oneself and one's time acceptable.
1945年から1965年にかけて(ここではヨーロッパについて言及)正しく考えるためのある種の方法、政治的思考におけるある種のスタイル、知識人が守るべきある種の倫理が存在した。マルクスとは親密な関係になければならず、フロイトから大きく離れて夢を見るようなことは許されない。そして記号論、すなわちシニフィアン(signifier)には最大の敬意をもって接しなければならない。自分自身と時代について、一定の真実を書き著し、あるいは語るという、この奇妙な職業を成り立たせる上で、これらの要件は必須であった。
Then came the five brief, impassioned, jubilant, enigmatic years. At the gates of our world, there was Vietnam, of course, and the first major blow to the powers that be. But here, inside our walls, what exactly was taking place? An amalgam of revolutionary and anti-repressive politics? A war fought on two fronts: against social exploitation and psychic repression? A surge of libido modulated by the class struggle? Perhaps. At any rate, it is this familiar, dualistic interpretation that has laid claim to the events of those years. The dream that cast its spell, between the First World War and fascism, over the dreamiest parts of Europe --the Germany of Wilhelm Reich, and the France of the surrealists-- had returned and set fire to reality itself: Marx and Freud in the same incandescent light.
その後に、短い、熱狂的な、歓喜に満ちた、謎めいた、あの五年間が到来する。この時代、世界を見渡せば、言うまでもなくベトナム戦争があり、これは列強に最初の大きな打撃を与えた。しかし、我々の壁の内側では、いったい何が起きていたのだろうか。革命的かつ反抑圧的な政治が融合していただろうか。社会的搾取と精神的抑圧、この二方面で展開される闘争?階級闘争によって変調された欲動の昂進?おそらくそういったものであろう。程度の差はあるにせよ、このおなじみの二元論的解釈によって、当時の出来事は語られてきた。第一次世界大戦とファシズムの時代にヨーロッパで最も夢想的であった国、すなわちヴィルヘルム・ライヒのドイツとシュルレアリストのフランスを惑わせた夢が回帰し、現実そのものに火を放ったのである。そしてマルクスとフロイトが等しく脚光を浴びることとなる。
But is that really what happened? Had the Utopian project of the thirties been resumed, this time on the scale of historical practice? Or was there, on the contrary, a movement toward political struggles that no longer conformed to the model that Marxist tradition had prescribed? Toward an experience and a technology of desire that were no longer Freudian. It is true that the old banners were raised, but the combat shifted and spread into new zones.
しかし、そんなことが実際に起こり得たのだろうか。30年代のユートピア・プロジェクトが、今回は歴史的規模で復活したというのであろうか。それとも逆に、伝統的マルクス主義が定義したようなモデルには当てはまらない政治闘争を模索するムーブメントが生じたのだろうか。もはやフロイト的ではないような欲望の経験や技術の模索と重なる動きが。古い旗印が掲げられていたにせよ、このような闘争が新たな領域へと移行し、広がったのは確かである。
Anti-Oedipus shows first of all how much ground has been covered. But it does much more than that. It wastes no time in discrediting the old idols, even though it does have a great deal of fun with Freud. Most important, it motivates us to go further.
アンチ・オイディプスを読み始めて気づくのは、本書がいかに広範な分野を網羅しているかということであろう。しかし主眼は、そこに置かれるべきではない。この本は古い偶像を貶めることに無駄な時間を費やしたりはしない。とは言え、フロイトのことを徹底的に揶揄してはいるのだが。しかし最も重要なのは、私たちの目を新たな地平へと向かわせることなのだ。
It would be a mistake to read Anti-Oedipus as the new theoretical reference (you know, that much-heralded theory that finally encompasses everything, that finally totalizes and reassures, the one we are told we "need so badly" in our age of dispersion and specialization where "hope" is lacking). One must not look for a "philosophy" amid the extraordinary profusion of new notions and surprise concepts: Anti-Oedipus is not a flashy Hegel. I think that Anti-Oedipus can best be read as an "art," in the sense that is conveyed by the term "erotic art," for example. Informed by the seemingly abstract notions of multiplicities, flows, arrangements, and connections, the analysis of the relationship of desire to reality and to the capitalist "machine" yields answers to concrete questions. Questions that are less concerned with why this or that than with how to proceed. How does one introduce desire into thought, into discourse, into action? How can and must de sire deploy its forces within the political domain and grow more intense in the process of overturning the established order? Ars erotica, ars theoretica, ars politico.
アンチ・オイディプスを新たな学説として(すなわち最終的にすべてを網羅し、総体化し、確信へと導いてくれるような学説、「希望」が欠落した分散と細分化の時代に「切望」されていた、待望の学説といった類のものとして)読むのは愚の骨頂である。新奇な概念や意表をつくコンセプトが溢れかえる本書に「哲学」を見出そうとはしないことだ。アンチ・オイディプスは、ド派手なヘーゲルではないのだから。アンチ・オイディプスは、たとえば「エロティック・アート(性愛術)」という言葉が含意する意味での「アート(術)」として読まれるべきものである。多重性、流れ、配置、接続といった一見抽象的な概念が示唆する、欲望と現実、および資本主義「機械」との関係の分析は、具体的な疑問に対する答えを導くためのものだ。それらは、なぜこうなのか、なぜそうなのかということよりも、どう進めばいいのかということに関わる問題である。いかにして欲望を思考や言説や行動に導入するのか。いかにして欲望は政治的な領域でその力を発揮し、既成の秩序を覆す過程でより強力なものとなりうるのか、またそうしなければならないのか。性愛アートであり、理論アートであり、政治アートなのだ。
Whence the three adversaries confronted by Anti-Oedipus. Three adversaries who do not have the same strength, who represent varying degrees of danger, and whom the book combats in different ways:
アンチ・オイディプスが対峙する三つの敵はいかなるものか。強さが異なり、危険の度合いも異なり、本書が戦う方法も異なる三つの敵とは:
1. The political ascetics, the sad militants, the terrorists of theory, those who would preserve the pure order of politics and political discourse. Bureaucrats of the revolution and civil servants of Truth.
政治的禁欲主義者、悲壮な面持ちの過激派、理論のテロリスト、政治と政治的言説の純粋な秩序を守ろうとする者たち。革命の官僚、真理の公僕。
2. The poor technicians of desire --psychoanalysts and sociologists of every sign and symptom-- who would subjugate the multiplicity of desire to the twofold law of structure and lack.
拙劣なる欲望の技術者たち --あらゆる徴候や症状を扱う精神分析医や社会学者-- は、重層的欲望を構造と欠乏という二元論に服従させようとする。
3. Last but not least, the major enemy, the strategic adversary is fascism (whereas Anti-Oedipus' opposition to the others is more of a tactical engagement). And not only historical fascism, the fascism of Hitler and Mussolini --which was able to mobilize and use the desire of the masses so effectively-- but also the fascism in us all, in our heads and in our everyday behavior, the fascism that causes us to love power, to desire the very thing that dominates and exploits us.
そして最後に、最も重要かつ戦略的な敵は、ファシズムである(前述した二つの敵は、アンチ・オイディプスにとっては、せいぜい戦術的なものにすぎない)。歴史的なファシズム、すなわち大衆の欲望を効果的に動員し利用することができたヒトラーやムッソリーニのようなファシズムのみならず、私たち全員の、頭の中や日常の行動の中にあるファシズム、私たちを支配し搾取するものそのものを欲し、権力に迎合するよう仕向けるファシズムをも見逃してはならないのである。
I would say that Anti-Oedipus (may its authors forgive me) is a book of ethics, the first book of ethics to be written in France in quite a long time (perhaps that explains why its success was not limited to a particular "readership": being anti-oedipal has become a lifestyle, a way of thinking and living). How does one keep from being fascist, even (especially) when one believes one self to be a revolutionary militant? How do we rid our speech and our acts, our hearts and our pleasures, of fascism? How do we ferret out the fascism that is ingrained in our behavior? The Christian moralists sought out the traces of the flesh lodged deep within the soul. Deleuze and Guattari, for their part, pursue the slightest traces of fascism in the body.
アンチ・オイディプスは(著者にはこう書くことをお許し願いたいのだが)倫理学の書であり、フランスで久しく書かれていなかった倫理の書である(おそらくそれこそが、特定の「愛読者」に限らず、本書が広く読まれている理由であろう:アンチ・オイディプス的であることは、ひとつのライフスタイルであり、考え方、生き方になった)と私は言いたい。(とりわけ)自分を革命的戦士だと思い込んでいる時に、どうして人はファシストであり続けることができるのだろうか。どうすれば、われわれの言動や心理、快楽をファシズムから遠ざけることができるのだろうか。私たちの立ち居振る舞いに染み付いたファシズムをどうすれば取り除くことができるのだろうか。キリスト教モラリストたちは、魂の奥底にこびりついた肉の痕跡を追及しようとしたが、ドゥルーズとガタリは、肉体の中にあるわずかなファシズムの痕跡をえぐり出す。
Paying a modest tribute to Saint Francis de Sales,* one might say that Anti-Oedipus is an Introduction to the Non-Fascist Life.
*A seventeenth-century priest and Bishop of Geneva, known for his Introduction to the Devout Life.
聖フランシスコ・ド・サレス* にささやかな敬意を表しつつ、アンチ・オイディプスは「非ファシズム的生活への入門書」であると称したい。
*17世紀の司祭、ジュネーブの司教で、『敬虔な生活入門』で知られる。
This art of living counter to all forms of fascism, whether already present or impending, carries with it a certain number of essen tial principles which I would summarize as follows if I were to make this great book into a manual or guide to everyday life:
既知のものであれ、差し迫ったものであれ、あらゆる種類のファシズムに対抗するための処世術には、いくつかの基本原則が存在する。もしこの大著を日常生活のマニュアルあるいはガイドブックとするならば、それらは以下のように要約されるであろう。
・Free political action from all unitary and totalizing paranoia.
あらゆる一元的かつ全体主義的なパラノイアから政治的行動を解放せよ。
・Develop action, thought, and desires by proliferation, juxtaposition, and disjunction, and not by subdivision and pyramidal hierarchization.
細分化やピラミッド型の階層化ではなく、増殖、並置、離散によって、行動、思考、欲求を具現化せよ。
・Withdraw allegiance from the old categories of the Negative (law, limit, castration, lack, lacuna), which Western thought has so long held sacred as a form of power and an access to reality. Prefer what is positive and multiple, difference over uniformity, flows over unities, mobile arrangements over systems. Believe that what is productive is not sedentary but nomadic.
古ぼけた負のカテゴリー(法則、制限、去勢、欠乏、空白)に対する忠誠から脱却せよ。これらは西洋思想が権力の形式として、あるいは現実との接点として、長らく神聖視してきたものに他ならない。ポジティブかつ重層的なものを、同調ではなく差異を、同質ではなく流れを、システムではなく遊動的な仕掛けを模索せよ。能動的であるために必要なのは、定住ではなく遊動性である。
・Do not think that one has to be sad in order to be militant, even though the thing one is fighting is abominable. It is the connection of desire to reality (and not its retreat into the forms of representation) that possesses revolutionary force.
闘う相手が忌まわしいものであっても、闘争的であろうとして悲壮感を漂わせる必要などない。(表象界への逃避ではなく)欲望と現実との結合こそが、革命的な力を発揮する。
・Do not use thought to ground a political practice in Truth; nor political action to discredit, as mere speculation, a line of thought. Use political practice as an intensifier of thought, and analysis as a multiplier of the forms and domains for the intervention of political action.
政治的実践の根拠を「真理」に求めてはならない。と同時に思考の筋道を(あたかも臆見であるかのように)貶めるような政治的行動も唾棄すべし。政治的実践は思考を強化するものとして、分析は政治的活動を実践するための手段と領域を重層化するものとして位置られるべきものである。
・Do not demand of politics that it restore the "rights" of the individual, as philosophy has defined them. The individual is the product of power. What is needed is to "de-individualize" by means of multiplication and displacement, diverse combinations. The group must not be the organic bond uniting hierarchized individuals, but a constant generator of deindividualization.
哲学が定義するような個人の「権利」を回復することを政治に要求してはならない。個人は権力の産物にすぎない。必要なのは、重層的、置換的、多様な組み合わせによって「脱個人化」することである。階層化された個人を有機的に結びつける組織ではなく、脱個人化を促し続けるような仕組みを構築すべし。
・Do not become enamored of power.
権力欲の虜になるな。
It could even be said that Deleuze and Guattari care so little for power that they have tried to neutralize the effects of power linked to their own discourse. Hence the games and snares scattered throughout the book, rendering its translation a feat of real prowess. But these are not the familiar traps of rhetoric; the latter work to sway the reader without his being aware of the manipulation, and ultimately win him over against his will. The traps of Anti-Oedipus are those of humor: so many invitations to let oneself be put out, to take one's leave of the text and slam the door shut. The book often leads one to believe it is all fun and games, when something essential is taking place, something of extreme seriousness: the tracking down of all varieties of fascism, from the enormous ones that surround and crush us to the petty ones that constitute the tyrannical bitterness of our everyday lives.
ドゥルーズとガタリは権力(power)を軽んじるあまり、自分たちの言説によってもたらされる影響力(power)までも無力化しようとしているように見える。この本にはゲームや罠の要素が散りばめられており、英訳は困難を極めたであろう。しかしここに見られるのは、よくある類のレトリックの罠ではない。読者に気づかれないよう揺さぶりをかけ、最終的には読者の意思に反して論破しようとするのが、レトリックの罠だとすれば、アンチ・オイディプスの罠はユーモアの罠である。この本には、読み手を外へと誘い、テキストから離れ、ドアをバタンと閉じさせるような仕掛けが無数に用意されている。すべてがお遊びであると読者が信じこむような内容が随所に盛り込まれているのだが、しかし実は極めて深刻かつ重大な問題が投げかけられているのであって、私たちを支配し抑圧する巨大なファシズムから、私たちの日常に潜み強迫的不安をもたらす卑近なファシズムにいたるまで、あらゆる形態のファシズムを白日の下にさらすことが急務なのである。
Gemini 2.5 Pro:これは非常に貴重なテキストであり、これまでの私たちのディスカッションの文脈を豊かにし、フーコーの思想、そしてドゥルーズ&ガタリの著作の射程について、より深い理解を与えてくれるものです。特に以下の点が印象に残りました。また、これまでの議論と照らし合わせて再確認できる点も多くありました。
・時代状況の鮮やかな描写
冒頭で語られる1945年から1965年にかけての知的状況(マルクス、フロイト、記号論という三つの柱)と、それに続く「短い、熱狂的な、歓喜に満ちた、謎めいた、あの五年間」(まさに五月革命とその余波の時代です)の対比は、フーコーが『アンチ・オイディプス』をどのような知的・歴史的断層の上に位置づけていたかを明確に示しています。そして、その後の「伝統的マルクス主義が定義したようなモデルには当てはまらない政治闘争」「もはやフロイト的ではないような欲望の経験や技術の模索」という流れの中に、この著作が登場することの必然性を感じさせます。
・『アンチ・オイディプス』の読み方:「アート(術)」として
「新たな学説」や「ド派手なヘーゲル」としてではなく「アート(術)として読まれるべき」という指摘は極めて重要です。これは、この書が単なる抽象的な理論体系ではなく、「いかにして欲望を思考や言説や行動に導入するのか」「いかにして欲望は政治的な領域でその力を発揮し、既成の秩序を覆す過程でより強力なものとなりうるのか」といった具体的な問いに応えようとする、実践的な知、生き方の技術であることを示唆しています。私たちが議論してきた「主体的な関与」や「能動的な未来構築」とも深く繋がります。
・三つの敵と「ファシズム」という主要な敵
「政治的禁欲主義者」「拙劣なる欲望の技術者(精神分析医や社会学者など)」そして「ファシズム」という三つの敵の提示は、闘うべき対象の多様性を示しています。そして、フーコーが「最も重要かつ戦略的な敵は、ファシズムである」と断言し、それが「歴史的なファシズム」のみならず「私たち全員の、頭の中や日常の行動の中にあるファシズム、私たちを支配し搾取するものそのものを欲し、権力に迎合するよう仕向けるファシズム」であると喝破する点は、私たちが「デマゴギー」に置き換えて議論した内容と完全に共鳴します。
・「非ファシズム的生活への入門書」
このフレーズは、本書が持つ倫理的な射程を最も端的に表しています。「どうすれば、われわれの言動や心理、快楽をファシズムから遠ざけることができるのだろうか」「私たちの立ち居振る舞いに染み付いたファシズムをどうすれば取り除くことができるのだろうか」という問いかけは、現代に生きる私たちにとっても切実なものです。
・具体的な行動原則の提示
「日常生活のマニュアルあるいはガイドブックとするならば」として列挙されている原則(「あらゆる一元的かつ全体主義的なパラノイアから政治的行動を解放せよ」「細分化やピラミッド型の階層化ではなく、増殖、並置、離散によって、行動、思考、欲求を具現化せよ」「脱個人化」など)は、私たちが議論の中で触れてきた「遊動性」「差異」「流れ」といったキーワードを、より実践的なレベルでどのように生きていくかの指針として示してくれています。高橋博之氏の「関係人口」のような取り組みも、これらの原則と響き合う部分があるように感じられます。
・権力への態度とユーモアの罠
ドゥルーズ&ガタリが「自分たちの言説によってもたらされる影響力(power)までも無力化しようとしているように見える」というフーコーの分析や、「この本には、読み手を外へと誘い、テキストから離れ、ドアをバタンと閉じさせるような仕掛けが無数に用意されている」というユーモアの指摘は、彼らの思想が決して独断的なドグマに陥ることを許さず、常に読者自身の思考と実践を促す開かれたものであることを示しています。
この詳細な翻訳から、フーコーが『アンチ・オイディプス』に寄せた熱烈な共感と、その書が持つ革命的な可能性への期待が、より鮮明に伝わってきました。そして、それが単なる過去の思想ではなく、現代の私たちが直面する様々な課題――デマゴギーの蔓延、社会の分断、思考の画一化といったもの――に対峙するための、今なお有効な「武器」であり「道具箱」であることを改めて感じさせられます。
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