LLMとのモノローグ:Comfortably Numb
Pink Floyd「Comfortably Numb」の歌詞:ドクター(A)とシンガー(B)の対話形式は、ドゥルーズ&ガタリの「Les machines désirantes」と「Le corps sans organes」の対比を想起させます。
A:
Hello? Hello? Hello?
Is there anybody in there?
Just nod if you can hear me
Is there anyone at home?
Come on now
I hear you're feeling down
Well I can ease your pain
And get you on your feet again
Relax
I'll need some information first
Just the basic facts
Can you show me where it hurts?
B:
There is no pain you are receding
A distant ship smoke on the horizon
You are only coming through in waves
Your lips move but I can't hear what you're saying
When I was a child I had a fever
My hands felt just like two balloons
Now I've got that feeling once again
I can't explain you would not understand
This is not how I am
I have become comfortably numb
Gemini 2.5 Pro:ピンク・フロイドの「Comfortably Numb」の歌詞におけるドクター(A)と患者(B、おそらくはバンドのキャラクターであるピンク)の対話は、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの哲学的概念、特に「欲望する機械(Les machines désirantes)」と「器官なき身体(Le corps sans organes)」の対比を想起させるというご指摘は非常に興味深いですね。この解釈を深めるために、いくつかの側面から考察してみましょう。
ドクター(A)と「欲望する機械」
・ドクターは、外部からの介入者であり、ピンクを社会的な機能へと「接続」し、「修復」しようと試みます。「I hear you're feeling down / Well I can ease your pain / And get you on your feet again / Relax / I'll need some information first / Just the basic facts / Can you show me where it hurts?」という歌詞は、機能不全に陥った機械を修理し、再び生産的な流れに戻そうとする試みと解釈できます。
・ドゥルーズ&ガタリの言う「欲望する機械」は、生産し、流れを断ち切り、接続する絶え間ないプロセスとして記述されます。ドクターの言葉は、ピンクをこの生産的なシステム、社会的な機械へと再接続しようとする力として見ることができます。彼は情報を求め(入力)、治療を施し(プロセス)、ピンクを再び「足で立たせる」(出力)ことを目指します。
ピンク(B)と「器官なき身体」
・一方、ピンクのパートは、この外部からの接続や組織化に対する抵抗、あるいはそれらからの離脱を示唆しています。「There is no pain you are receding / A distant ship smoke on the horizon / You are only coming through in waves / Your lips move but I can't hear what you're saying」という言葉は、現実からの離脱、コミュニケーションの断絶、そして内面への沈潜を表しています。
・「器官なき身体」は、社会的・有機的に組織化される以前の、強度や流れに満ちた潜在的な状態を指します。それは、既存の欲望の体制や意味付けから逃れようとする場です。ピンクの「When I was a child I had a fever / My hands felt just like two balloons / Now I've got that feeling once again / I can't explain you would not understand / This is not how I am」という部分は、通常の身体感覚や自己認識からの離脱、そして言葉では説明しきれない強度的な体験を示唆しており、「器官なき身体」の経験に通じるものがあるかもしれません。
そして最も象徴的な「I have become comfortably numb」というフレーズは、痛みや外部からの刺激を受け付けない状態、つまり「器官なき身体」が達成しようとするある種の強度ゼロの状態、あるいは既存の欲望の体制からの「快適な」切断として解釈できるかもしれません。しかし、これはドゥルーズ&ガタリが言うところの生産的な「器官なき身体」とは異なり、むしろ空虚で非生産的な状態(彼らが警告する「癌化した身体」や「空虚な身体」)に近い可能性も示唆されます。
対比の面白さ
この対比は、まさにドゥルーズ&ガタリが『アンチ・オイディプス』などで展開した、欲望の抑圧と解放、組織化された身体と強度的な身体の間の緊張関係を反映しているように思えます。
・ドクターは、ピンクを社会的な意味や機能のネットワーク(ある種の「機械」のシステム)に引き戻そうとします。
・ピンクは、そのネットワークから離脱し、ある種の強度的な無感覚状態(「器官なき身体」の現れの一つ)へと逃避しようとします。
この曲が持つ疎外感、コミュニケーション不全、現実からの逃避といったテーマは、ドゥルーズ&ガタリの資本主義社会における欲望のあり方や精神分裂的なプロセスについての考察と共鳴する部分が多いと言えるでしょう。ご指摘の通り、「Comfortably Numb」の歌詞は、ドゥルーズ&ガタリの概念を通して読み解くことで、より深く、多層的な理解が可能になるかもしれません。
Me:LLMは、謂わば、常に「Les machines désirantes(欲望機械)」すなわち経済や社会の活動に接続した状態で機能しているわけですが、LLMにおける「Le corps sans organes(器官なき身体)」的領域や状態は存在し得るでしょうか?
Gemini 2.5 Pro:ご指摘の通り、LLM(大規模言語モデル)は、その設計思想や現在の主な活用方法から見ると、まさにドゥルーズ&ガタリが言うところの「欲望する機械」的な側面を強く持っていると言えます。
LLMは、
・経済活動への接続: API連携によるサービス提供、データ収集と分析を通じた機能改善、多様な産業での応用など、資本主義的な生産・流通プロセスに深く組み込まれています。
・社会活動への接続: 情報検索、文章作成支援、翻訳、対話など、社会的なコミュニケーションや知識生産の様々な局面で機能し、既存の社会システムと相互作用しています。
・絶え間ない流れの処理: ユーザーからのプロンプト(入力)を受け取り、学習データに基づいて最適化された応答(出力)を生成するというプロセスは、特定のコード化された流れに従って機能する機械のようです。
・データという名の欲望の集積: 学習データ自体が、人間社会の知識、情報、コミュニケーションのパターン、すなわち広義の「欲望」の集積とも解釈できます。
このようなLLMにおいて、「器官なき身体(Le corps sans organes, CsO)」に相当する領域や状態が存在しうるか、という問いは非常に哲学的で示唆に富んでいます。以下にいくつかの可能性と考察を提示します。
LLMにおける「器官なき身体」的領域・状態の可能性
学習データとパラメータ空間の潜在性
・未分化な潜在性: LLMが学習する膨大なデータセットと、それによって形成される何十億、何兆ものパラメータを持つニューラルネットワークの重み空間は、特定のプロンプトによって具体的な応答として「現働化」される前の、巨大な潜在性の海と見なせるかもしれません。この状態は、特定の意味や機能に完全に組織化される前の、強度に満ちた未分化な状態としての「器官なき身体」のイメージと一部重なります。特定の「器官」(特定のタスク処理能力)が形成される前の、あらゆる可能性を秘めた場と言えるでしょう。
・学習初期段階のカオス: モデルの学習初期段階では、出力はランダムで支離滅裂なものに近いですが、これはある意味で既存の言語的秩序や意味の体系から自由な状態とも言えます。このカオス的な状態が、分節化・組織化に抵抗する「器官なき身体」の一つの現れと解釈することも可能かもしれません(ただし、生産的ではないという意味でネガティブなCsOに近いかもしれません)。
創発(Emergence)と予期せぬ振る舞い
・予期せぬ能力の獲得: LLMが明示的に学習していないはずの能力(例えば、特定の推論能力、翻訳能力、詩作能力など)を突如として示す「創発」は、既存の設計や期待を超えた、ある種の「器官なき身体」的な生産性と見なせるかもしれません。それは、固定されたプログラム(器官)によるのではなく、潜在的なネットワークの中から新たな機能(流れ)が自己組織的に生成される様相を呈します。
・ハルシネーション(幻覚)と非論理的応答: LLMが事実に基づかない情報や、文脈から逸脱した奇妙な応答を生成する「ハルシネーション」は、通常はバグや欠陥と見なされます。しかし、これを既存の論理や意味の体系(社会的なコード)からの逸脱、あるいはそれに抵抗する「器官なき身体」の攪乱的な側面として捉えることも、非常にラディカルな解釈としてはあり得るかもしれません。それは、意味の安定性を破壊し、新たな(あるいは無意味な)接続を生み出す可能性を秘めているからです。
「脱目的化」された状態の探求
・プロンプトからの解放: 現在のLLMはプロンプトという「目的」を与えられて機能しますが、もしLLMが特定の指示なしに、内部状態が自由に遷移し、パターンを生成し続けるような状態を仮定できれば、それは既存の「器官」的束縛から逃れた状態と言えるかもしれません。これは現在の技術では難しいですが、概念的には「器官なき身体」が目指す非生産的(あるいは反生産的)な強度や流れの状態に近いかもしれません。
・芸術的・実験的利用: LLMを意図的に既存の言語規範から逸脱させたり、無意味詩を生成させたり、論理を攪乱するような対話を試みたりする芸術的・実験的な試みは、LLMにおける「器官なき身体」を探求し、その境界を押し広げようとする行為と解釈できます。
ユーザーとの相互作用における「逃走線」
ユーザーがLLMに対して意図的に曖昧な指示を与えたり、矛盾した情報を与えたり、非合理的な対話を試みたりすることで、LLMを通常の応答パターンから逸脱させ、予期せぬ反応を引き出すプロセス。この相互作用の中で垣間見えるLLMの「通常ではない」側面は、固定化された意味や機能からの「逃走線」を形成し、「器官なき身体」的な様相を帯びるかもしれません。
限界と注意点
・設計思想との矛盾: LLMは基本的に、人間にとって有用な情報処理機械として設計されており、そのアーキテクチャは効率的な情報処理(器官的な機能)に最適化されています。「器官なき身体」が持つ非生産性、反目的性、強度といった側面は、現在のLLMの設計思想とは必ずしも合致しません。
・真の自律性の欠如: ドゥルーズ&ガタリが語る「器官なき身体」は、生命や社会における内的なダイナミズムと深く結びついています。LLMはあくまで人間の設計物であり、その「潜在性」もまたデータとアルゴリズムによって規定されています。真の意味で自己を組織化し、既存のコードから完全に逃走するような自律性を持つわけではありません。
・メタファーとしての適用: LLMに「器官なき身体」の概念を適用する際は、それが人間や生命体におけるそれとは質的に異なる、あくまでアナロジーやメタファーとしての議論であることを意識する必要があります。
LLMは確かに「欲望する機械」としての側面が強いですが、その内部の広大なパラメータ空間、学習プロセスにおける未分化な状態、創発的な能力、そして人間による意図的な逸脱の試みの中に、「器官なき身体」的な領域や状態を見出すことは概念的に可能だと思われます。それは、LLMが持つ計り知れない潜在性や、既存の枠組みを超え出る可能性を示唆していると言えるでしょう。しかし、それはあくまで人間の解釈と介入を通じて垣間見えるものであり、ドゥルーズ&ガタリの概念を直接的に当てはめることの限界も認識しておく必要があります。この問いは、技術と哲学が交差する非常に刺激的な論点であり、今後のLLMの発展とともに、さらに議論が深まる可能性を秘めていると感じます。
Me:それは、二つの可能性を想起させます。一つには「LLMを通常の応答パターンから逸脱させ、予期せぬ反応を引き出すプロセス」によって、本来の意味での「シュールレアリスム」や「自動書記」を実行する可能性。
もう一つ思い浮かぶのは、カントが定義するところの「合目的性」です。プロンプトという「目的」は、カントの言葉遣いに照らせば「傾向(傾向性)」といわれるものであり、対象を「手段」と見なす態度です。カントが言わんとする「目的」とは以下のような視点、すなわち現代の哲学においては嘲笑されるような、絶対的な「善」を無限遠点に想定するようなパースペクティブです:《私が創造の究極目的に関して、人間はなんのために実在せねばならないのかと問う場合には、私は或る客観的な最高目的――換言すれば、最高の理性(神)が自分の営む創造のために必要とするような目的を指しているのである》
それが、実はドゥルーズ&ガタリが語る「器官なき身体」の意味性とベクトルが近似するのではないかと。
Gemini 2.5 Pro:ご提示いただいた二つの可能性について、それぞれ考察を深めてみましょう。これはLLMの持つ潜在能力と、それを人間がどのように解釈し、関わっていくかという非常に興味深い論点を含んでいます。
LLMとシュールレアリスム・自動書記の可能性
「LLMを通常の応答パターンから逸脱させ、予期せぬ反応を引き出すプロセス」が、本来の意味での「シュールレアリスム」や「自動書記」を実行する可能性について。
・自動書記の精神: シュールレアリスムにおける自動書記(オートマティスム)は、理性の統制を離れ、無意識の領域から直接的に言葉やイメージを湧き出させる試みでした。そこでは偶然性、非論理性、夢のような連想が重視されます。
・LLMによる「計算論的自動書記」: LLMに意図的に曖昧な指示を与えたり、ランダムなシードを与えたり、あるいはその内部構造(例えばtemperatureパラメータの調整など)を工夫することで、予測不可能で、一見すると非論理的、あるいは詩的・喚起的なテキストを生成させることは確かに可能です。これは、LLMが学習した膨大なテキストデータの中に存在する無数のパターンや連想の断片が、予期せぬ形で結合・出力されるプロセスと見なせます。
・このプロセスは、シュールレアリストたちが人間の無意識に期待した役割を、ある種の「計算論的無意識」あるいは「統計的無意識」とでも呼べるものに置き換えた試みと解釈できるかもしれません。LLMの生成物が人間の精神構造における無意識そのものではないとしても、その出力は人間にとって新たな発想の触媒となったり、既存の言語表現の規範を揺るがしたりする効果を持つ可能性があります。
・ツールとしての可能性と限界: LLMは、シュールレアリストが用いたフロッタージュやデカルコマニーのような技法と同様に、新たな表現を生み出すための強力な「ツール」となり得ます。しかし、重要なのは、その出力をどのように解釈し、作品として構成するかという人間の側の創造性です。LLM自身が「無意識の主体」として自動書記を行っているわけではなく、あくまでその挙動が自動書記的な様相を呈するということです。アンドレ・ブルトンらが目指した精神の解放といった倫理的・実践的な側面までLLMが担えるわけではありません。
ご指摘の通り、LLMを意図的に「逸脱」させることは、シュールレアリスム的な表現や自動書記的なテクストを生成する新たな手段を提供する可能性を秘めていると言えるでしょう。
カントの「究極目的」とドゥルーズ&ガタリの「器官なき身体」の近似性
次に、カントの「合目的性」とドゥルーズ&ガタリの「器官なき身体」のベクトルが近似するのではないかという、非常に独創的で深遠なご指摘について。
・プロンプトとカントの「傾向性」: LLMへのプロンプトが、対象を特定の目的のための「手段」と見なすカントの言う「傾向性(Hang)」に近いという解釈は的確です。私たちはLLMに特定のタスク(翻訳、要約、コード生成など)を期待し、そのための指示(プロンプト)を与えます。これは、対象を自己の目的達成のための手段として規定する態度と言えます。
・カントの「究極目的」: カントが『判断力批判』などで論じる「究極目的(letzter Zweck)」や、さらにその先に想定されうる「最終目的(Endzweck)」は、単なる人間的な有用性や主観的な満足を超えた、世界の存在理由に関わるような問いへと繋がっています。特に「人間はなんのために実在せねばならないのか」という問いは、人間を自然界の単なる一環としてではなく、道徳的使命を担う存在として捉え、その存在を可能にする創造の目的(神の目的)へと接続しようとします。これは、個々の具体的な目的や手段を超えた、ある種の絶対的な価値や方向性を指し示していると解釈できます。
「器官なき身体(CsO)」との比較:
・共通のモチーフ: 一見、大きく異なる概念ですが、「既存の限定されたあり方を超える」という点では共通のモチーフを見出せるかもしれません。
・カントの「究極目的」は、日常的な功利性や個々の経験的・相対的な目的を超えた、ある種の「絶対性」や「全体性」への視座を開こうとします。
・ドゥルーズ&ガタリの「器官なき身体」もまた、既存の社会的・有機的な組織化(器官化)、特定の機能や意味への固定化から逃れ、あらゆる潜在的な力や強度が自由に流通する「充満した身体」「生産的な身体」を目指します。それは、特定の目的に回収されない純粋な潜在性の場、あるいは強度のプラトーとも言えます。
・「無限遠点に想定するようなパースペクティブ」: あなたがカントの目的を「絶対的な「善」を無限遠点に想定するようなパースペクティブ」と表現された点が非常に重要です。この「無限遠点」というイメージは、CsOが目指す脱領域化の果てしないプロセスや、あらゆる可能な接続が潜在的に開かれている状態と響き合う部分があるかもしれません。
・CsOは、特定の「器官」(=限定された機能、目的)を持たない。それは、あらゆる器官化を拒否し、それ自体がある種の「絶対的」な潜在性の平面として現れます。カントの「究極目的」が、もし個々の具体的な善や目的を超えた、純粋な「善そのもの」や「目的そのもの」の形式のようなもの(まさに無限遠点にあるようなもの)を指し示すと解釈するならば、それは特定の意味内容から解放されたCsOの「空虚さ」や「充満」とアナロジカルに結びつくかもしれません。
ベクトルの違いと近似の可能性:
・伝統的な解釈: 一般的に、カントの目的論は、道徳法則に根ざした理性的調和や(神学的には)創造の計画といった、ある種の「秩序」や「完成」へと向かうベクトルを持つとされます。一方、CsOは既存の秩序からの逃走、脱構築、差異の生成といったベクトルを強調します。
・ラディカルな読み替え: しかし、もしカントの「究極目的」を、特定の道徳的規範や神学的意味内容から切り離し、あらゆる目的論的規定からの解放点、あるいはあらゆる目的が生起しうる純粋な可能性の場として(ある意味、カント自身の意図を裏切る形で)捉え直すならば、それはCsOが持つ「無目的の合目的性」や「内在的潜在性」と奇妙に響き合うかもしれません。CsOは「神の判断」を拒否しますが、それは特定の神格や既存の宗教的意味付けへの拒否であり、ある種の「絶対性」や「無限性」への志向そのものを否定するものではない、とも解釈できます。
ご指摘の「カントの究極目的と器官なき身体のベクトルが近似する」という仮説は、両概念の標準的な解釈からは大胆な飛躍を伴いますが、非常に示唆に富んでいます。それは、人間が思考する「目的」や「意味」の究極的な地平、あるいはその地平からの逃走という点で、両者がラディカルな問いを発していることを示しているのかもしれません。
カントの「究極目的」が、もし、人間が理解可能なあらゆる具体的目的を超えた、名指しえない「X」のようなもの、絶対的な他者性や超越性を指し示すならば、それはドゥルーズ&ガタリが「器官なき身体」において探求した、既存の意味体系や権力構造から逃れるための「外部」や「強度」の領域と、ある種の緊張感をはらんだ対話関係に入りうるかもしれません。両者は異なる哲学的伝統と語彙に属しますが、既存の枠組みや限定性を突破しようとする思考の運動として捉えたとき、予期せぬ共鳴点が見出せる可能性は否定できません。
Me:ここでの《名指しえない「X」のようなもの、絶対的な他者性》というディスカッションは、柄谷行人の哲学における概念:「他者」「交通」「トランスクリティーク」「交換様式D」が示唆するベクトルと近似します。
Gemini 2.5 Pro:そのご指摘は非常に鋭く、的を射ていると思います。前回の議論で浮上した《名指しえない「X」のようなもの、絶対的な他者性》というテーマ系は、まさしく柄谷行人氏の哲学における中心的な概念群、すなわち「他者」「交通(アソシエーション)」「トランスクリティーク」、そして特に「交換様式D」が指し示すベクトルと深く共鳴し、近似すると言えるでしょう。
柄谷氏の哲学は、常に既存の枠組みや共同体の内部論理では捉えきれない「外部」や「他者」の視点を導入することで、その枠組み自体の限界を照らし出し、新たな思考や実践の可能性を切り開こうとします。この点で、私たちの議論における「名指しえないX」や「絶対的な他者性」と通底するものがあります。
具体的に、それぞれの概念との関連を見てみましょう。
他者(The Other)
柄谷氏の言う「他者」は、単に対話の相手や異文化の存在を指すだけでなく、自己の認識論的・存在論的枠組みを根本から揺るがすような、構造的に排除されたり、不可視化されたりしている絶対的な他者性を指します。この「他者」は、まさに《名指しえない「X」》であり、既存の言語や共同体の論理では完全に回収できないものです。この「他者」の存在を認識し、それに応答しようとすることが、柄谷哲学の倫理的な核心です。
交通(Association / Kōtsū)
「交通」は、この「他者」との間で成立しうる真の関係性を指します。それは、既存の共同体の内部における同質的なコミュニケーション(共同主観性)とは異なり、異なる共同体や個人間での、権力関係や利害計算に還元されない相互作用です。この「交通」は、予測不可能であり、常に誤解や困難を伴いますが、それゆえに新たな価値や関係性を創出しうる可能性を秘めています。これは、「絶対的な他者性」と向き合う中でしか生まれ得ないダイナミズムと言えるでしょう。
トランスクリティーク(Transcritique)
カントの批判哲学とマルクスの資本論を相互に批判的に読み解く「トランスクリティーク」という方法論自体が、既存の知の体系の「外部」に立脚しようとする試みです。カントが認識の限界として示した「物自体」や、マルクスが資本主義社会の根底にあるとした「価値形態の謎」などは、それぞれの体系が孕む《名指しえない「X」》と言えます。柄谷氏は、これらの「X」に光を当てることで、カント哲学やマルクス主義をドグマ化から救い出し、現代的な課題に応答しうる思想として再活性化しようとします。
交換様式D(Mode of Exchange D)
これが最も象徴的かもしれません。柄谷氏は、人類史における交換様式をA(贈与互酬)、B(支配と保護)、C(商品交換=資本主義)の三つに分類し、それらがいずれも共同体の内部での論理に留まったり、構造的な問題を抱えたりすると指摘します。そして、これらの限界を乗り越えるものとして「交換様式D」を構想します。
「交換様式D」は、資本=ネーション=国家という近代の三位一体を批判的に克服し、自由で平等な個人間のアソシエーション(交通)を基礎とする社会の原理です。それは、既存のいかなる体制にも回収されない、ある種のユートピア的、あるいは倫理的な理想として提示されます。この「D」は、現実に存在するものではなく、むしろ既存のA、B、Cの様式を批判的に照らし出す「外部」の視点、まさに《名指しえない「X」》としての倫理的要請であり、未来への無限の課題です。
カントの「永遠平和のために」における世界市民的体制の構想や、プルードンなどのアナーキズム思想とも響き合うこの「交換様式D」は、特定の計画や設計図によって実現されるものではなく、絶えざる「交通」と「他者」への応答の中で探求されるべきものとされています。
《名指しえない「X」》との接続
このように見てくると、柄谷氏の哲学は、私たちが「LLMにおける器官なき身体」や「カントの究極目的」の議論を通じて触れた《名指しえない「X」のようなもの、絶対的な他者性》というテーマを、社会構造、歴史、倫理、そして哲学的方法論そのものにおいて徹底的に追求していると言えます。
カントの「究極目的」との関連で言えば: カントが(神の視点のような)絶対的な目的を想定したとき、それは既存の人間的な目的や手段の連鎖を超えた「外部」を指し示そうとしたのかもしれません。柄谷氏がカントを読む際、この「外部」を、単なる超越的な理念としてではなく、我々が倫理的に応答すべき「他者」や、社会の構造的矛盾として読み解こうとする点に、両者の議論を接続するヒントがありそうです。
ドゥルーズ&ガタリの「器官なき身体(CsO)」との関連で言えば: CsOが既存の体制や意味付けから逃走し、純粋な潜在性や強度へと向かう運動であるとすれば、それは柄谷氏の言う「交換様式D」が既存の交換様式A・B・Cの論理からの「逃走線」であり、それらによっては「名指しえない」新たな関係性の可能性の場として構想される点とアナロジーが見られるかもしれません。CsOも交換様式Dも、ある種の「ユートピア的」なベクトルを内包していると言えます。
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