20XX年宇宙の旅・ミッション・ファッション(デザインの話・第三話)
ライフスタイルとファッションをテーマに友人たちとアドリブで語り合った:
高橋博之氏(activist)
岩田章吾氏(architect)
黒田ゆう氏(realtor)
20XX年宇宙の旅・ミッション
廣江:機械学習する人工知能によって高い精度で「何が正しいか(整合性があるか)」という判定が導き出されるようになると、カルト宗教やQアノン陰謀論のようなものは失墜せざるを得なくなる。
WIRED:《言語パターンを分析し、「Q」による投稿の、主な投稿主とされる人物(Qアノン陰謀説の火付け役となった政府高官とされる人物)を発見したのは機械学習だった。また、南アフリカのソフトウェア開発者、ポール・ファーバーと、8chanの元管理人の息子、ロン・ワトキンスの手によるものと思われるQの投稿も特定した。》(ひとつの銀河に宇宙全体の記憶が宿る?機械学習が示すまったく予想外の仮説)
https://wired.jp/membership/2022/07/08/what-can-we-learn-about-the-universe-from-just-one-galaxy/
廣江:福島の原発事故以降、にわか「論客」が増殖して、なんにつけてもああだこうだと言いたてるようになった、と津田大介氏がどこかで書いておられた。そのような症候は「2ちゃんねる」周辺にあったものだが、それが米国へと飛び火し(8chan)、Qアノン陰謀論が蔓延る培地となった。
黒田:海外から一時帰国中の友人と食事したんだけど、「日本には、それ誰のため?という忖度、空気によって生まれた謎の市場がある」と言っていた。しかも謎市場の巨大さは世界に比類ないんじゃないかな、と。
廣江:中国語に「失望しても絶望しない(就算失望不能絶望)」という表現があります。僕自身は、世の価値観・ライフスタイルは(往きつ戻りつ)徐々に良くなってゆく、と楽観視している。世の中はいずれ良い方へ向かうだろうと。そのようにして、自分が何か考えているということは、この宇宙の片隅の、短命な常在菌のような存在が、宇宙全体の端くれとして考えているわけだから、せめてお天道様に申し訳がたつようなことをしながら生きないといけないなぁと。小さなことからコツコツと。
黒田:人間の肉体と精神の関係、について、子供の頃の私はかなり突き詰めて考えてました。爪を切ると、さっきまで私の一部だったものがゴミになる。しかも痛くはない。でも手を包丁で傷つけると痛い。精神は肉体に宿っている脳の一機能なのだろうけど、胸が苦しいと感じることもある。人の心が、肉体の反応を通じてわかることも沢山ある。
宇宙を一つの生命体としたら、きっと私はその細胞の一部なんだろう、とか。そして私個人の死は、爪を切るのと変わらないんだろうな、とか。人間って、地球の表面でモゾモゾしているカビみたい。って、思ってたなぁ、こどもの頃。善玉菌と悪玉菌がいる、とか。
岩田:善玉菌と悪玉菌って面白い。どちらも自己の勢力拡大のために活動してるけれど、一方は宿主の調和を、一方は混沌を促進する。悪玉菌にも役割があるのかな。善玉菌ばかりだと体に悪いとか。
地球にとっての腸内細菌である我々が、「自分とは何者か」という、知恵の芽を生み出し、それを宿主全体の機構を自らの不完全な言葉によって認識できるまで育て上げたことは、人間という物語の中では素晴らしい成果ですね。
廣江:それにしても、なぜ「悪い」状態と「良い」状態の両方が生じてしまうのか。何事につけても。
やや迂遠なハナシですが、宇宙全体の質量とエネルギーは、その95%以上がダークマターとダークエネルギーで占められているという推論があります。それは通常考えられているような、物質やエネルギーが漂っているという経験的イメージとは大きく異なる。最近のビッグ・リップ(Big Rip)仮説によれば、ダークエネルギーによって膨張し続ける宇宙は、有限な時間内に無限大(すべての距離が発散して無限となる最終的な単一状態)となり得る。その時、全ての構造(カタチ)は消滅する。
また、それとは別に、現在の宇宙は「偽の真空」、すなわちまだエネルギーの高い状態にあって、それは一時的に安定しているだけの「準安定状態」に過ぎない、という推論も存在する。もし宇宙のどこかで、エネルギーのレベル(ポテンシャル)のより低い「真の真空」が生じると、それは宇宙全体に広がり、すべての物質やエネルギーは連鎖反応的に「真の真空」へと相転移してしまう。この場合も全ての物理的構造は崩壊する。
廣江:これを「文学的」に解釈するとすれば、世のカタチあるものはまだ「仮の状態」にあり、その中から「ウソから出たマコト」的にリアルなものを探すしかないということなのか。中世の神学論争における「リアリズム」は、そういうものですね。神のイデア(完全なるもの)がリアルなのであって、現世の被造物は偽りであると。
しかし、物理学的現象を「文学的」に解釈するのは誤謬の元です。宇宙の終焉(end)のあり方を、仮説を立てた上で精緻に論証できるとすれば、それ自体には意味がある。しかしその文脈の上に安易に目的(end)を置いてしまうと、粗悪な弁証法に陥ってしまう。そこからいくらでもカルト的な「教義」が紡ぎ出せてしまう。政治の世界において覇権主義や戦争を正当化するのに援用されるのも、その手の教義や物語。
黒田:人は自分を拡張したがる。
廣江:そのようなハナシは養老孟司氏の本にありそうな気がする。
高橋さんのブログより:
《養老先生は「意識や言葉は、すべてを切る」とよくおっしゃっていますよね。例えば「生産者と消費者」という言葉も両者を切ってしまっている。だけど実態は切れていない。本来あるはずの関わりが見えなくなっているだけなので、それをちゃんと見えるようにしたいと僕らは思っています。》(養老孟司氏と「持続可能な社会」を考える)
廣江:これは良い言葉。ミッション(mission)とは、まさにこういうものだ。
デザイン・ファッション
廣江:フォルクスワーゲンの"Think small."については、何度か書いてきたんですが、そのような価値観ベクトルのキーワードは、以下のようなものだったかなと:「Think small.」「No Design」あるいは「ミニマリズム」...
しかし「ミニマリズム」というものは、ひとつの装飾様式であって、それを目指すのは違うかなと。
岩田:ミニマリズムもその精神的内実が貧困であれば単なる虚飾になります。
廣江:岩田さんがよく言う「アホみたいな」デザインって、どういうものですかね?
岩田:「アホみたいな」デザインは、当たり前すぎて拍子抜けするような(アホみたいな)デザインですね。あまりに自然で意図や作意が感じられないようなデザイン。「アホみたいな」デザインは境地であって、目指すべきものではないと思います。小さく考えるのも(Think small.)、デザインしないことも(No Design)、この境地に至るための経路(手法とは言いたくない)なのではないかと思います。(ただしミニマリズムは、目指す方向が違うと思います)
ちょうど七色の光を合わせると透明な光になるように、いろいろな作為や工夫を尽くした結果、それらがすべて消え失せる。そんなデザインが「アホみたいな」デザインです。極上の「アホみたいな」デザインは、それは一つの時代を指し示していながら、ずっと以前からあったかのようにみえるデザインであり、当り前のようで、見たことのない、「おぼろげな既知のなにか」が、「明確の未知の物」として出現したものでもあります。
廣江:おお。岩田教授ならではのアフォリズム(アホリズム)!
黒田:必要、に立脚したデザインは結果として美しい。特に建築は。ファッションは、不要な装飾に侵されているように見えるけど、やはり普遍性を帯びているデザインは、必要を追求している。それがどんな「必要」なのか、が意識されないところが、岩田さんのおっしゃるところの「アホみたいな」デザインなのかな?
岩田:必要からはじまって必要のうちにありながら必要を超えるデザイン。キモノなんかはその際たるものではないでしょうか。キモノをアホみたいという度胸はありませんが。生活を規定するくらい当たり前ですが、デザインとして見るとずば抜けて優れている。
黒田:おお、着物!確かに。各国各地方の伝統衣装は、みなそのような美しさがありますよね。そして、非ネイティブが着るとダサい。
岩田:民族の身体性と不可分だからですね。
黒田:身体性と地域性ですよね。気象条件など。
岩田:そうですね。その意味でファッションも場所に縛られている。現在のファッションは差異による異化が中心なのでしょうから、民族衣装をパクって、エキゾティシズムを演出しますが、安直な引用は最近は炎上しちゃいますね。
昔、ヴィム・ヴェンダースが山本耀司を撮った映画で、アウグスト・ザンダーの撮ったドイツの市井の人々の写真から影響を受けたという山本耀司に、ヴェンダースが、なんで日本人なのにドイツ人の服を真似るんだと突っ込まれて、黙ってしまうというシーンがありました。でも、山本耀司の服は好きですけどね。
黒田:好き、好み、というのも、むつかしい概念です。なぜ好きなのか、というのはよくわからない。でも、好きであることは、必要。
私はヨージヤマモトの娘のリミさんの服を背伸びして買ってた時期がありましたねー。Y'sの服はギリギリ手が届いた気がする。若い頃は、なんだか全然わかってなかったけど「好きな服を着られる」ことが嬉しくてたまらなかったですね。
縫製より、カット重視って感じ。着物も縫いより断ちが遥かに重要。私は浴衣と襦袢は縫ったことがあって、一反の布から形を作る、という工程の中で、最も大切なのは、断ちだと学びました。
山本耀司氏のインタビュー記事より:《服は女に魅力を与えられない。魅力とは、服とそれを着る人が出会った時に生まれるものだ。》
黒田:世界は、男の世界と女の世界と、人間の世界が重なりあっている。
岩田:好きは意識の下のところからきますよね。自分の好きを分析し尽くしてしまうと、虚無に襲われる。ゆめゆめ金の卵を産むガチョウの腹を裂くことなかれですね。
黒田:それ、誰が買ったの?と思う服を着て歩いている人が少なからずいて、それはつまり、それ、誰が作ったの?と思う服を売っている店が少なからずある、ということ。
岩田:近代建築の表層的な機能美礼讃に対して丹下健三は「美しいもののみが機能的である」と逆説をとなえ、社会的要求が変化する現代では、美しくないものは陳腐化し淘汰されてしまうので、機能的であることは大前提として、そのうえで、美しくなくてはならないといいました。
一般的に機能美といわれる事象があると認めたうえで、機能美を機能と美の関係ととらえると、機能も美もとらえどころがない点が気になります。例えば、機能といったときに、形態の構造的合理性の追求なのか、有用性への最大適応なのか、経済合理性に適応したのかなど、機能をどうとらえるかによって異なります。
廣江:誰もが皆、裸の王様。であるがゆえにファッション談義も奥が深い。欲動をどう表現するかという現実上の芸/術(アート)に関わることだから。欲望を「解放する」ことと、それをただ「開放する」ことは違う。実感としてわかってきたのは、無意識の欲動を現実において実現する過程において、それが無様でダメダメな様相を呈してしまうのは、むしろ当たり前のことだなと。
ミシェル・フーコーの書いた《アンチ・オイディプス<資本主義と分裂症>ドゥルーズ=ガタリ共著》の序文を訳し直してみたのも、あらためて「欲望」についての彼らの考えをなぞってみようと思ったわけです。
ミシェル・フーコー:《アンチ・オイディプスは、たとえば「エロティック・アート(性愛術)」という言葉が含意する意味での「アート(術)」として読まれるべきものである。多重性、流れ、配置、接続といった一見抽象的な概念が示唆する、欲望と現実、および資本主義「機械」との関係の分析は、具体的な疑問に対する答えを導くためのものだ。それらは、なぜこうなのか、なぜそうなのかということよりも、どう進めばいいのかということに関わる問題である。いかにして欲望を思考や言説や行動に導入するのか。いかにして欲望は政治的な領域でその力を発揮し、既成の秩序を覆す過程でより強力なものとなりうるのか、またそうしなければならないのか。》
Anti-Oedipus: Capitalism and Schizophrenia (English Edition)
PREFACE by Michel Foucault
黒田:本を読むことの何が好きって、自分ではない誰かの脳みその中に入る感触があるからだと。子供の頃は国語の教科書ですら読むのは楽しかったし、テストで初見の文章を読むと、その本を読みたくなったりしたものです。最近はそういう、興味を惹かれる本の切れっぱしみたいなものに出会う機会が減りました。
岩田:読書は知らない街を訪ねるのに似ています。楽しむにはそれ相応のスキルが必要です。インターネットやテレビは粗悪なガイドによる急足の観光のようで、見るべきところはほぼ素通りで、土産物屋に監禁されたりします。街への訪問は、地図を持ってしっかりと見て回るのも、ただブラブラと歩き回るのも自由ですが、いずれの場合も、楽しむことができる素養が必要です。
黒田:楽しむことのできる素養、これは大切!
岩田:街の何気ない風景や、人の姿に感動するように、文体を楽しめるか、街の成り立ちに感嘆するように、本の、物語の、構造に感嘆できるか。目的地への道行を楽しむように、話の、論旨の、理論の、流れを楽しめるか。学問は最大の道楽です。伊藤仁斎の元にはそんな旦那衆が詰めかけたらしいですね。岩田は遊びを極めていませんが。
廣江:岩田さんのアフォリズム、アホリズム、遊びイズム... ここにコンセプトとして標榜する名称やスローガンがあるといいですね。具体的には「具体美術協会」のような...
と思ったら愚鈍なまでに具体的な社名をつけた人がこちらに:
高橋博之さん(株式会社雨風太陽 東京オフィス)