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大量消費をボイコットしはじめた生活者視点からのインサイトメモ

【夏休みの読書】アンチ・オイディプス<資本主義と分裂症>

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闘争的であろうとして悲壮感を漂わせる必要などない。
たとえ戦う相手がいかに忌まわしいものであろうとも。

(ミシェル・フーコー)

ごく短い期間ですが、小生は被爆地である広島に住んどったことがあるんじゃけぇ。

お盆の時期が近づくたび、穴あきな自分の無力さに忸怩たる思いを抱くのです。


アンチ・オイディプス<資本主義と分裂症>
ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ著
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309462806

英語版には、ミシェル・フーコーによる、以下のような序文が添えられている。

序文(Preface in Anti-Œdipus/Michel Foucault 1977)より:

アンチ・オイディプスは(著者にはこう書くことをお許し願いたいのだが)倫理学の書であり、フランスで久しく書かれていなかった倫理の書である(おそらくそれこそが、特定の「愛読者」に限らず、本書が広く読まれている理由であろう:アンチ・オイディプス的であることは、ひとつのライフスタイルであり、考え方、生き方になったのだ)と私は言いたい。(とりわけ)自分を革命的戦士だと思い込んでいる時に、どうして人はファシストであり続けることができるのだろうか。どうすれば、われわれの言動や心理、快楽をファシズムから遠ざけることができるのだろうか。私たちの立ち居振る舞いに染み付いたファシズムをどうすれば取り除くことができるのだろうか。キリスト教モラリストたちは、魂の奥底にこびりついた肉の痕跡を追及しようとしたが、ドゥルーズとガタリは、肉体の中にあるわずかなファシズムの痕跡をえぐり出す。

聖フランシスコ・ド・サレス*にささやかな敬意を表しつつ、アンチ・オイディプスは「非ファシズム的生活への入門書」であると称したい。
*17世紀の司祭、ジュネーブの司教で、『敬虔な生活入門』で知られる。

既知のものであれ、差し迫ったものであれ、あらゆる種類のファシズムに対抗するための処世術には、いくつかの基本原則が存在する。もしこの大著を日常生活のマニュアルあるいはガイドブックとするならば、それらは以下のように要約されるであろう。

• あらゆる一元的かつ 全体主義的なパラノイアから政治的行動を解放せよ。

• 細分化やピラミッド型の階層化ではなく、増殖、並置、離散によって、行動、思考、欲求を発展させよ。

• 古ぼけた負のカテゴリー(法則、制限、去勢、欠乏、空白)に対する忠誠から脱却せよ。これらは西洋思想が権力の形式として、あるいは現実との接点として、長らく神聖視してきたものに他ならない。ポジティブでかつ重層的なものを、同調ではなく差異を、同質ではなく流れを、システムではなく遊動的な仕掛けを模索せよ。能動的であるために必要なのは、定住ではなく遊動性である。

• たとえ闘う相手が忌まわしいものであっても、闘争的であろうとして悲壮感を漂わせる必要などない。(表象界への逃避ではなく)欲望と現実との結合こそが、革命的な力を発揮する。

• 政治的実践の根拠を「真理」に求めてはならない。と同時に思考の筋道を(あたかも臆見であるかのように)貶めるような政治的行動も戒めるべきである。政治的実践は思考を強化するものとして、分析は政治的活動を実践するための手段と領域を重層化するものとして位置づけられるべきものである。

• 哲学が定義するような個人の「権利」を回復することを政治に要求してはならない。個人は権力の産物にすぎない。必要なのは、重層的、置換的、多様な組み合わせによって「脱個人化」することである。階層化された個人を有機的に結びつける組織ではなく、脱個人化を促し続けるような仕組みを構築すべし。

• 権力欲の虜になるな。

ドゥルーズとガタリは権力(power)を軽んじるあまり、自分たちの言説によってもたらされる影響力(power)までも無力化しようとしているように見える。この本にはゲームや罠の要素が散りばめられており、英訳は困難を極めたであろう。しかしここに見られるのは、よくある類のレトリックの罠ではない。読者に気づかれないよう揺さぶりをかけ、最終的には読者の意思に反して論破しようとするのが、レトリックの罠だとすれば、アンチ・オイディプスの罠はユーモアの罠である。この本には、自分を外へと誘い出し、テキストから離れさせ、ドアを勢いよく閉めさせるような仕掛けが無数に用意されている。この本には、すべてがお遊びであると読者が信じこむような内容が随所に盛り込まれているが、しかし現実には極めて深刻かつ重大な事態が進行しているのであって、私たちを包囲し押しつぶす巨大なファシズムから、私たちの日常生活において高圧的に苦痛をもたらす卑近なファシズムにいたるまで、あらゆる形態のファシズムを白日の下に晒すことが急務なのである。

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