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高校卒業直後にアメリカの全寮制高校に飛びこみ、文化、言語、価値観、人間関係、そして勉強で七転八倒しつつ適応していった、5年間の留学生活から学んだレッスンを、具体的エピソードを交えて紹介。

男同士の文通と、手紙で知った祖母の死

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今はどこにいてもネットにつながれる便利な時代ですが、留学した1989年当時はそんなものはありません。日本を出国したと同時に、日本の情報はほぼ絶たれた状態でした。


どうしてもリアルタイムで日本と連絡を取り合わなければならない場合、国際電話を使う手がありましたが、高額すぎてよほどの緊急でもない限り、使えませんでした。大した用件でもないのに実家に国際電話をかけると、「通話代がもったいないから、そんなことで電話をするな」と叱られたものです。


よって、日本とのコミュニケーション手段は、航空郵送の手紙に限定されていました。いわゆる、エアーメールというヤツです。


この航空便の手紙、片道1週間かかります。なので、どんなに筆マメな者同士でも1往復するのに2週間待たねばなりません。


Eメールやfacebookに慣れた今振り返ると、あり得ないゆったりペースのコミュニケーションですが、それが当たり前だったのでとくに不便とは思いませんでした。また、不便な分、手紙が届いたときの喜びはひとしおでした。


当時彼女はいなかったので、文通相手はもっぱら学生時代の男友達(と両親)だけでした。男同士で便せんに書きつづっての文通・・・を想像すると、どうしてもキモい印象がありますが(笑)、けっこういいものでしたよ。くだらない手書きイラストが描かれていたりして、逆に心がこもっている感があったりしました。



高校時代の同級生らは、

「あの大して英語の成績がよかったわけでもない中山が、アメリカに行っちまったぞ~」
「お前、メシとか大丈夫なのか!?死んでねーか?」
「で、金髪ギャルとは、(ピーーーーー)とか(ピーーーーーー)してんのか?」

と、予想通りの内容の手紙を寄越してくれました。

しかし、彼らも大学生活が始まると次第に返信に時間がかかるようになり、やがてマメな数人だけとのやりとりに落ち着いてはしまいましたが・・。(まあ、男ってそんなもんだと思います)


日本のニュースは手紙を通じてしか知ることがなかったため、かなりの間浦島太郎状態になってしまいました。美空ひばりが亡くなったのも、死後だいぶ経ってから手紙で知りました。祖母が留学直後に亡くなったことは、1ヶ月後に母から手紙で知らされました。


祖母の死はけっこうショックでした。


怒らせるとすごく怖く、孫の私にも厳しく接することが多かったですが、遊びに行くと必ず出前のラーメンを取ってくれ、笑点を見ながら一緒にラーメンをすするのが、小学生の頃の私の楽しみでした。


その祖母に別れを告げることも、葬儀に参列することも、その悲しさを誰かと共有することもできなかったわけです。部屋で一人ベッドに座り、「出国直前の親戚への挨拶周りのときに会ったのが最後か・・」としばらく身動きができませんでした。


英語が満足に話せなかった留学初期の当時は、喜怒哀楽を誰かと共有したり、共感しあったりということが満足にできませんでした。英語が話せないこと以上に、感情を全部一人で抱えなければならないことが、ものすごいストレスになるんだなと思ったものです。


楽しい知らせ、悲しい知らせ、励ましの言葉・・などなど、留学中は様々な人から手紙をもらいました。大切な手紙だったので、1通も捨てることができず、すべて段ボールに入れて保管していました。引っ越しの時も留学を終えて帰国するときも、ずっと持ち歩いてきました。


今も、実家の押入の奥の段ボールの中で、眠っています。


そして、留学生活はまだまだ続いていきます。


つづく



代表 中山順司
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