赤でも渡る横断歩道
僕が毎日通る通勤路は、近所の小学校の通学路でもある。出勤時間と通学時間帯とがちょうど重なるので、新学期を迎えたばかりの今日この頃は、安全確認のために黄色い旗を持った大人達が必ず交差点に立っている。昔は「緑のおばさん」と呼ばれる専任のおばちゃんがやっていた仕事を、最近は父兄が持ち回りでこなすのが流行らしい。当然近所で顔見知りの人が加わることも多いので、朝の挨拶を欠かすわけにはいかない。そしてどんなに急いでいたとしても、業務妨害をするわけにはいかないので、信号機表示に従うそれら「おばちゃん」の指示は絶対的である。
でも何ヶ月か経過して新入生も通学路に慣れてくる頃にもなると、おばちゃん達が出動する頻度は落ちてくる。人の見張りはいなくなり信号機だけになるのであるが、このあたりでむくむくと赤信号でも渡ってしまえという誘惑が頭をもたげてくる。娘を連れて歩いている時は、教育上の配慮もしなければならないので、信号機表示には必ず従うようにしている。これが見知らぬ子供ならば、そこまで責任を負う必要はないじゃないかと半分くらい思いながらも、子供の目を気にして今のところは踏みとどまっている。地域で子供を育てるべきだ、といった類のスローガンが頭をよぎる。
初めてアメリカに行った時に、車は来ないけれどもおとなしく赤信号で立ち止まろうとしていたら、同行していたアメリカ人は「Waiting for nothing is nonsense」と言うや否や躊躇無く信号を突破してしまったことがある。何も来ないのに立ち止まっているのは馬鹿げている、といったニュアンスであろうか。あちらでは盲目的にルールを遵守することはほとんど罪悪とでも考えているようである。自分が安全だと判断すればそれで十分であり、あとは直ちに行動するのが正義なのだろう。アメリカ人はルールに対しては必ず服従するものだとばかりその時まで思っていたのであるが、必ずしもそうではないらしい。
この躊躇の無さというか割り切りの良さは、日常はなかなか垣間見ることはできないのではないだろうか。人間ウオッチングをやっていると、横断歩道の手前で安全確認を行なったとしても、多くのケースは一瞬立ち止まって誰も渡らないのかなという風情で周囲を見渡すようである。それからやっと意を決したように、赤信号を突破しようとする。この瞬間的な間と言うか躊躇の有無が日米の違いであろうか。そしてそれまで赤信号で立ち止まっていた人も、先導者を待っていたかのように、後に続くのである。その時にはどうやら少々の後ろめたさのようなものを背負っていることも多いようだ。正義の実行とは対極的な心情である。もちろん個人差はあるはずなので、ステレオタイプ的な決め付けは妥当ではないだろう。ただこういった風景を見ると、どうしても嘉門達夫の小市民を思い出してしまうのである。